
『流通する「人体」 献体・献血・臓器提供の歴史』
香西 豊子
勁草書房 (2007/07)
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表題どおり、献体・献血・臓器提供の歴史をなぞったもの。
とはいえ、歴史を記す感覚ではないのかもしれない。資料を当たりはしたのだろうけれど、事実に即して記す姿勢でいるのだろうけれど、フィクション然とした書きようになってしまっている。
えーと、つまり。 とにかく修辞というか、文学的遊び、表現のたゆみが多すぎる。冗長、過剰。印象的記述に流されがち、モーメント(揺れ)が大きくてしかと立ち位置をとらえにくい。なんというか、論理はあるが具体的な程度を読みとりにくい、効きすぎたショックアブソーバーのようだ。フワフワ。女脳。
熱意も、やりたいことも伝わってくるだけに、この記述のありようは、残念。
主題の選び方はうれしい。
明治初頭、刀の試し切りに使われていた、人間の死体たち。
90年前、なんで夏目漱石の脳は今に伝わる見せ物にされることになってしまったのか。
50年前、輸血や献血でなにが行われていたのか。
40年前、献体(自分の死後の身体を医学の解剖実習に使わせる)はどんなことになっていたのか。
何のために、どうして、どんな思いが交錯して、死体が献体として扱われてきたのか。
献血は。そしていまどきの「人体の不思議展」のたぐいに見る、固めた死体プラスティネーションの晒しものたち。
【献体】
献体(自分の死体を医学の解剖実習に使わせる)。
ああ、たしかに40年前は「献体をしよう! 解剖実習用の死体が足りない!」としきりに騒いでいたよなぁ。解剖されても意識があり、肉を剥がれて骨になっても意識があり、
... 以下つづき...


骨壺の中でおのれが、まわりの遺骨が、骨としてカラリ カラリと音をたてるさまをじっと見ている”死後の少女の意識”を描いた、誰の作品だったか、そんな小説も(時代を反映していたのだろう)当時あった。それが、あれ、いつのまに献体の美談と篤志は影をひそめてしまったんだ? あれはいっときの知恵熱だったのか、そんな熱を出していたことがあった時代のひととき、その頃のことを思い出させてくれる。
60年代・献体美談熱のその一昔前は、第二次大戦の直後。その当時は身よりのない者の死体(無縁仏)が、本人の遺志も何も関係なく次々と医者のお勉強用の解剖材料に供されていた。なによりまず命の救い手を育てねばならない。死者の遺志を配慮する余裕さえもろくになく。
【献血】
輸血は、一昔前は採って預けて、どころか、枕を並べて腕から腕へ「生血/なまけつ/輸血」。なにせ戦時中は人間の身体に馬の血を注いでみる実験もやっていたような「輸血後進国」だった日本だ。(『血液の物語』 p.163)

※ 血液の科学史、輸血や献血のエピソードがいっぱいの本
ダグラス・スター
河出書房新社
1999(原書1998)
戦後間もない当時の「なまけつ」で梅毒に感染してしまう患者。
自分の血を預けるのでもなく、売るのでもなく、誰かのために無償で捧げる「献血」という形に収束していった経緯と錯誤。
【人体の不思議展】
そしていまどきの、錯誤の集中点と化しているかのようなプラスティネーション(固めた死体)の見せ物。ヒト死体の晒しもの。
違和感ばりばりな死者の思いに戸惑う観客。観客に配慮してかえって「不自然」になるメイド・イン・中国の死体・・・。
『 死体展示会社についての情報とポッドキャスト 』
中国国内でも
「遺体の提供は科学研究のためで、見世物にするのは不適切だ」
「人体標本を見世物にし、料金まで徴収するのは死者への冒涜」
のようなツッコミが起きてきている。
さらには、「故人の遺志に関係なく」保存され公開されてしまう、夏目漱石の脳。


献体にしろ、献血にしろ、死体のサラし見せ物にしろ。
それぞれの時代で、それぞれに浮かされていた。熱に。冷めては熱があったことさえ忘れ、そしていつのまにか次の熱の中に浸され、また冷め、また萌え。そうやって、感染していない一瞬さえ許されずに次々と時代の知恵熱に転がされていく自分たち。
古今の面白い瞬間、事例をいろいろ並べてくれる。
ただ、それらが当時どの程度で、それを今どう見ればいいのか、については、この本の中ではあいにく車酔い状態にされてしまう。過剰な修辞という、効きすぎたショックアブソーバーに振り回されて、しかと捉えることが難しい。正確だとは思えない。時代的にどうだったかは、なんぼか、ぶれているようだ。
例えば献体にしろ、輸血にしろ、その当時は著者(1973年生まれ)がこの世に生まれ出る前のことで、ご本人にはあずかり知らないことであろうけれど、当時のことを知っていて存命している人間はまだこの世にたくさんいらっしゃる。聞けよ。文献だけじゃなく。当時を知る隣人に。当時の当事者に。
ああ、「正確だとは思えない」と思ってしまったのは、ほかの見解、他の研究者から見た立ち位置/一般にはどう見做されているのか、が見えてこないからか。
例えば「漱石の脳」にしても、似たような状況でしかも諸人による考察が積もっている「傑出人脳」の事例は他にもある。いまだ勝手に切り売りされているアインシュタインの脳しかり、強引に盗まれスミソニアン博物館の倉庫に忘れ去られていたイシの脳しかり。それら類似例を引く必要はなかったのか、ただ不要だったのか知らなかったのか。
力作だとは思う、厚い本書の後ろ3分の1は、注(「柱」になっているのは誤植?)・資料・参考文献・索引にぎっしり占領されている。たくさんしらべたんだろう、文献を。
それら注、資料、参考文献、索引に埋もれて見逃してしまいそうに「あとがき」がちょこなんとはさがっていたりする。

40年前、献体(医学の解剖実習用に自分の死後の身体をあげる)はどんなことになっていたのか。
50年前、輸血や献血でなにが行われていたのか。
90年前、なんで夏目漱石の脳は見せ物にされることになってしまったのか。
これらの話をまとめて読んで「へぇ〜!」してみたい人にはオススメ。
すでになんぼか経緯を聞きかじっている人には、この
『流通する「人体」』についてであれば、下記あたりおもしろかった覚えが。




『脳死と臓器移植の医療人類学』 マーガレット・ロック著; みすず書房; 5000円 2004/06 原書:2001/Twice Dead
『臓器は「商品」か 移植される心』 出口顯 講談社現代新書 2001
『ヒューマンボディショップ:臓器売買と生命操作の裏側』 A・キンブレル著 福岡伸一訳 化学同人 1995(原書1993)
『人体市場 商品化される臓器・細胞・DNA』 L.アンドルーズ/D.ネルキン著 岩波書店 2002/09(原書:2001/Body Bazaar)
自分が死んだあと、自分の死体は自分のものだと思いますか?

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