『左手のシンボリズム わが国宗教文化に見る左手・左足・左肩の習俗の構造とその意味 』 松永和人 九州大学出版会 (1995/05)
これは旧版。2001年に新版が出ている。[bk1]
この本の中、インフォーマント(情報を教えてくれる人)である住民が、お互いの見解の食い違いで諍(いさか)ってしまうという、冒頭の断り書きに登場する話が面白く。
p.7-8
調査地名は明確に記すべきであろうが,以下に述べるような理由もあって,その多くを1農村とか近郊農村といった表現にとどめておいた。その理由の1つをあげておけば,手に何も持たず神に面するとき「左手」を右手の上に重ね,神には「左手」を見せるようにしなければならないという習俗があり,そのことを「サシュ」といっているが,その字を「左手」と書くという人と手を交叉するという意味で「叉手」と書くという人とがいて,筆者の前で大きな論争になったことがあった。筆者は本書で「左手」と記しているが,「叉手」と述べる人に配慮し,調査地の具体名は避け,1農村,近郊農村といった表現にとどめていることもことわっておきたい。同様なことは,他の事実についてもよく経験することである。
諍(いさか)いを蒸し返すことのないよう、世間に対しては表現を配慮して報告をせねばならないという…
... 以下つづき...


まるで臨床試験や精神医療方面の、被験者に関する匿名性配慮みたいで、へぇぇぇ。
いや、違うな、匿名性じゃないな。
地域の特性や、住民の意識に配慮して、記述に加減をするという話はある、民俗学や文化人類学でそういう配慮はありえるし、世間につまびらかにされたくない情報は秘匿してあげるという配慮やお行儀はふつうに推奨されている。でも、
・住民間の意見の相違をことさらにあばきたてないよう
という配慮は、寡聞(かぶん)にして初めて遭遇したような気がするので、へぇぇです。
地元の人が、意見が一致していないわけだ。一致していないことに気がついていなかったわけだ。
そして、その意見の相違、いさかいを荒立てないように、配慮がなされる。
意見の相違は… 温存したほうがいいのかな?
ケースバイケースだよね、一概には言えない。でも、「我々の由来」についての見解が相違したままの方向におかれるように配慮される、というのもまたこれ、微妙に悲しいものがある。
我ら一族は仕える神をお招きする際に「叉手」を使うのじゃ。
ええっ! お言葉ですが、長老、うちのおババはそれは「左手」じゃと言うておりましたぞ!
そねなことはねい、手を交差させる形を「叉手」と言ゆる、ゆえにサシュなのじゃ。
いいや違いゆるぞ、神に右手は厳禁なのじゃ、左にすべてを託す意味で、交差して「左手」じゃろう!
どこぞの村の集会所でいきなりそんな大悶着になってしまったんだろうか。
「叉手」を検索すると、まずは「座禅の作法」など、仏教系の情報がずらずら出てくる。
叉手だとしても、はるかいにしえの左手の作法に、伝播してきた仏教の作法がかぶさって変形して成立しているという可能性もありうるわけだし、「本当はどっちだったのか」どの時点を「本当」として扱うかという恣意性もあるだろうし、とくだん定めないほうが安泰、みたいな落ち付け方もありえるわけで。
由来は、解釈しやすい安全な由来がいいのか、それとも解釈しづらくとも今が居心地悪くなろうとも「正しい由来」を選ぶことがよいことなのか、そこを判断するのも、情報を選ぶのも、判断する側の状況しだい… だったりするのだろうけれど。
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