なぜ「左」がハレ・ケガレの両義性を抱え込んでダイナミックに動くのか。
なぜ「右」が日常の世界だとして、デフォルト扱いですまされるのか。
明らかに、有史前から、脳はおのれを世界に投影してきたのではないか。



『左手のシンボリズム わが国宗教文化に見る左手・左足・左肩の習俗の構造とその意味 』 松永和人 九州大学出版会 (1995/05) (これは旧版。2001年に新版が出ている。)
『左右の民俗学』 礫川全次 (こいしかわ ぜんじ 編集) 批評社 (2004/10) 古今の民俗学系文献から左右の考察を集積
『排除する社会・受容する社会 歴博フォーラム 現代ケガレ論』 関根康正、新谷尚紀編 吉川弘文館 (2007/05)

ひところ、民俗学における世界観は
ハレ・ケ・ケガレ
という3区分から成り立つのだと前提されて、なんぼか混乱を招いていた。
ケガレとハレの区別はいったいどうなっているんだ!?
なんでケガレがハレにひっくり返ることがあるんだ!?
ケガレとハレのそれぞれの根拠はいったい何なんだ!?
そこを、今どきは文化人類学の知見も援用して、ケガレとハレをべっこ扱いするのはよそうよ、「ふだん(日常的計算)」と「ふだんではない(非日常、正邪ひっくるめて感情が論理を駆逐する場面)」という2項対立で見たほうが何事もすっきりするのではないか、と捉え方をシフトさせようとする動きが出てきているらしく。
... 以下つづき...

松永氏によって丹念に収集されたこうした事例によって、日本古来の神事において「左が優位」であることは学問的にも明確になった。このような文化をここでは、「左尊右卑」と呼んでおくことにしよう。
[ 松永氏の視点のユニークさについて ]、私[ 礫川全次氏 ]なりにポイントをまとめておこう。
1:「左=聖・右=俗」という二項対置を設定することにより、左右の優劣を問う議論、すなわち左右どちらがプラスの価値(吉・正・強・浄など〕を持ち、どちらがマイナスの価値(凶・邪・弱・穢など)を持つかを問う議論を止揚(しよう)した。
2:「聖・俗」という二項対置を設定することで、神事と葬儀とがともに「左」によって運営される理由が説明可能となった。
3:聖(呪術・宗教的生活活動)と俗(世俗的生活活動)とは、次元のことなる世界であり、それぞれに相異なる原理が働いていることを示した。
このうち特に注目したいのは、2である。神事と葬儀がともに「左」によって運営されるということは、左が吉と凶の両側面を持つということであり、これは言い換えれば、左が「両義性」を持っているということである。松永氏自身は「両義性」という言葉を使っていないが、氏が『左手のシンボリズム』というタイトルの著書で説明した内容は、「聖」としての左の両義性の問題であり、松永氏の指摘は、デュルケム以来の宗教人類学の分析とも整合性を持つ。
松永氏の研究はこのように画期的で優れたものであるが、その研究の存在を知っている読者、その研究を正当に評価している研究者は、さほど多くないようである。まことに残念なことと言わざるをえない。なお私個人としては、松永氏の視点に触発されつつ、「貴=賎」と「俗」を対置させることによって見えてくるものがないかと考えているところである。
【ハレ・ケ・ケガレの3区分】
松永氏の視点が「ユニークである」と見做されるその前フリには、その前の「ハレ・ケ・ケガレ」という分類に対する違和感があったのであり、
『排除する社会・受容する社会 歴博フォーラム 現代ケガレ論』
新谷尚紀「赤不浄と黒不浄:忌み穢れ感覚の希薄化」p114
日本民俗学のケガレ論は、1980年代の波平恵美子のハレ・ケ・ケガレの三極構造論と桜井徳太郎のハレ - ケ - ケガレの循環論との議論から始まった。しかし、波平のハレ(清浄性・神聖性〕、ケ(日常性・世俗性〕、ケガレ(不浄性)と、桜井のハレ(祝祭・生命力の更新)、ケ(毛・気・生命力)、ケガレ(ケ枯れ.生命力の枯渇)という両者の設定した概念の相違により、その議論は生産的にかみ合うことはなかった。
それに対して新谷は、ハレとケは柳田の設定した民俗学の対概念としてむやみに動かすべきではなく、ケガレの新たな概念規定こそが必要であり、日本の歴史と民俗の資料情報の整理をもとに、ケガレは死の力、カミは生命力であると規定して、ケガレ-ハラヘ-カミというケガレの逆転によりカミが生まれるというメカニズムの存在を指摘する「ケガレ・カミ」論を提示した。

そして、冒頭にあげた三冊の中でも、特に
「反対概念のないケガレ:
価値概念や評価以前の感情反応としてのケガレ」論
を祀りあげるかのように編まれていて、その微妙に強引な編集の姿勢が面白い(というか、この本の元になった「歴博フォーラム」という企画自体が、すでに特定の方向を狙っていたっぽい)。
でもって、その方向に乗れていない参加者が浮いたまんまさらし者になってしまっているんですが。「感情反応としてのケガレ」以前の、社会学的な忌避把握のままに事態を把握しきれていないトム・ギルさんが、関根氏に「わかってないなぁ」扱いで持て余されてしまっている対談…(文化人類学と社会学の間で観察されがちな乖離のたぐい?)。…これを面白いといってしまうと当事者にかわいそうだけれども、「なぜこんな彼をここに混ぜてしまったのか」と、妙に毒気を込められたような編み上がりになってしまっている。
関根康正氏は、要は、ケガレは原初的な「ぎょっとするもの」を覆うくくりだと看破する。
意味はどうあれ、聖だの穢だのという「無条件に感情を揺さぶる何か」を帯びたものを、なんらかのレッテルでくくる、そのくくりを便宜的にここではケガレと言いかえてよいのではないか。良し悪し無関係に原初的な「ぎょっとするもの」に処することを根幹にして、この世の「秩序」は編まれているがゆえに、
p165
ケガレが秩序の存立と表裏になっていることに思いめぐらさなければならない。そうすれば、「無秩序に(秩序無しで)生きる」決意という生身の人間にはほとんど不可能な実践なしに、完全なケガレ追放の道などないことに気づき愕然とするだろう。そこが議論の出発点である。
秩序を放棄しない限り、ケガレはなくならない。
アタリマエのことではあるが、そういう、原初的なリバタリアニズムの香りを孕む、あたりまえな指摘を掲げたのが、この『現代ケガレ論』であるらしい。
で、こう、そういう当たり前なところを再確認して歩くのはよいとして、それが社会学〜文化人類学〜民俗学、さらにはせいぜい心理学の入口どまりで、人体性質の知見(脳科学、認知考古学、進化心理学…)につながるまでは行かないっぽいところが、なぜなのかなと、ついつい興味を惹いてくれる。
民俗学 ・・…・・ 脳機能。
どっか、このへんに研究者的に越えてはいけない分水嶺があったりするんだろうか?
いや、憑依現象の解釈に脳科学は足突っ込んだりしているし、違うな、民俗学と生体科学がそりが合わないんじゃなくて、「ハレ・ケガレ」類の意味づけに限った場合に脳機能解釈はイマイチ使えねーとなる、ということなんだろうか。

はた目には、ふつーに
「左側に聖・邪・非日常が属するのは、感情主導が右脳の担当だからでしょう」
と見えるわけで。でもそういう話は、ケガレ論では出てこない。「そんなの関係ない」。
感情が右脳。論理と言語(日常支配)の脳機能は左脳に局在。そして、左右脳は、左右反転の分業で外界情報を処理している。
左に聖・邪、荒ぶる世界のハレ・ケガレ。右に日常、平板な日々の暮らしのケの世界。
ふつうに考えれば、これは脳の機能が、まんますなおにヒト世界観にベロッと出ているだけなのではないか。
遡れば、古代の埋葬からも、脳の認知機能に即した配置であからさまに見て取れる。右、左、上、下…
松永和人氏言うところの「左尊右卑」パターンは、特定の時代や文化を発端に広まったものではなく、ヒトという種において言語野が主に左に鎮座することが定まった当初から、ケガレ(環境への感情反応)は左で、ケ(日常論理)が右になることは必然的に予言されていた、のではないか。
そういう認知考古学方面からのお話も、民俗学や社会学のほうにまでは、聞こえてこない?
いや、民俗学や社会学に手出しをするのを控えている? 地雷処理に手を出せるレベルにはほど遠いことを自覚しているとか?
竹沢尚一郎著 『人類学的思考の歴史』 世界思想社教学社 (2007/06)
p.72
感情とはもっとも分析しにくいものであるため、感情に訴えることは問題の明確化ではなく、問題をあいまいにするだけであった。つぎの章で見るフランス社会学派やレヴィ=ストロースがいうように、感情は制度の原因ではなく、その結果と考えられなくてはならないのである。
現状解釈の基盤に感情機能を措定することは、そもそもはばかられることなのだ、とされているということなんだろうか。よくわからない。
ていうか、民俗学や文化人類学の人たちが今リアルタイムにどんな視野で何を進行させているのか、これけっこう見えづらいよね〜。いざ何かが聞こえてきても、部外者にはさっぱりな、分厚い知識前提の呪文に終始してくれたりするし。
『排除する社会・受容する社会 歴博フォーラム 現代ケガレ論』 の目次:
はしがき 新谷尚紀
1 排除する社会・受容する社会
トム・ギル ニンビー現象における排除と受容のダイナミズム
福井勝義 民族の移住史にみる〈彼ら〉から〈我ら〉へ 北東アフリカにおける排除と受容のダイナミズムから
李仁子 移住者にとっての故郷と故郷離れ
2 現代社会と伝統文化
関沢まゆみ 宮座祭祀と死穢忌避 伝統社会の生活律
新谷尚紀 赤不浄と黒不浄:忌み穢れ感覚の希薄化
3 ケガレ論
関根康正 なぜ現代社会でケガレ観念を問うか 現代社会における伝統文化の再文脈化
4 討論
一 分析概念としてのケガレ
二 排除から受容へ
三 ケガレは普遍的概念か?
あとがき 新谷尚紀/関根康正
ある意味、民俗学の転向?
排除論・差別論や、 リバタリアニズムとのからみも含めて、気になる人はこの本チェキどうぞ。
松永和人著『左手のシンボリズム』は、九州を中心にしたフィールドワークや資料から、「左右」がどんな意味合いを帯び、どんな作法で扱われてきたのか、そしてその左右観をつらぬいて見えてくるものは何であるのか、読み解きにチャレンジした意欲作。
礫川全次編『左右の民俗学』は、日本民俗における「左右」のありようを考察した古今のテキストをずらり集積した資料集。読みごたえが楽しい。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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