良き野蛮人(bon savage) 野人神話…
【「高貴な野蛮人」幻想ってなに】
●文明に侵されていない自然状態の人間は、大変高潔で善良な、無垢(むく)のひとびとである。
原始的な民族は、無私無欲で温和、心安らかな暮らしを素朴に送っている。
貪欲で狡猾な悪者や、いさかい、不安、暴力、戦争などの悲惨・悪行は、最近の文明特有のものであり、我々は「高貴な野蛮人」さんたちに学ばなければならない。
…そんな言説のこと。
『徳の起源:他人をおもいやる遺伝子』 マット・リドレー著 2000/06
道徳の進化入門(原書:1996/The Origins of Virture)
p.291
われわれは動物の持つ暗い側面は無視し、明るい側面にだけ同情を寄せるのである。われわれは先住民に対しても、同様の相手を見下した同情心を持って接している。今でも根強く残っている高潔な野人神話がそれをよく示している。

【「高貴な野蛮人」幻想の発生】
●「先住民というものを発見しますた」
「高貴な野蛮人」幻想は、ヨーロッパ人と、ヨソの地(アメリカやアフリカ、オセアニア)の現地住民との遭遇から発生してきた異文化偏見のたぐい(ステレオタイプ)。
ヨソの遠い文化に「こうであって欲しい」という都合の良い幻想を投影し、自分の文化に対比させる形で解釈しはじめる。
... 以下つづき...

『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か 上』 スティーブン・ピンカー著 NHKブックス 日本放送出版協会 2004/08 原書 2002年/ The Blank Slate p.29
『いまを生きる人類学:グローバル化の逆説とイスラーム世界』 大塚和夫 中央公論新社 2002/01
p.164
「未開」というカテゴリーが、あくまで「文明」というカテゴリーとの対比において、またその場合にのみ意味をもつものであることも忘れてはならない。未開社会のイメージはあくまで文明社会のそれとの対比において、すなわちその反転像として意味をなしていることが多いのである。そこから、一方では遅れた野蛮な存在というマイナスのイメージが彼らに付与され、他方では文明の毒から免れた純真無垢な「高貴なる野蛮人」、さらには復権されるべき「失われた世界」に住む人びとといったプラスのイメージで称揚されることもある。
●ヨソの文化に押し付けた幻想と偏見のうち、「今の文明社会はほとほとひどい、昔はこうでなかったろうに」幻想から「高貴な未開人」という話が編まれていく。
例えば、白人が酋長のフリをして書いた寓話 『パパラギ』や、チベット僧のフリをした白人が書いたファンタジー『第三の目』などは、「高貴な未開人」系列の幻想に乗っかって「これぞリアル」ともてはやされた作品であるわけで。
『自然保護の神話と現実 アフリカ熱帯降雨林からの報告』 ジョン・F. オーツ著 緑風出版 (2006/01)
原書 1999/MYTH AND REALITY IN THE RAIN FOREST
〜p.83
[ケント・]レッドフォードは、高潔な未開人というこの神話が、トマス・モアやジャン・ジャック・ルソーなどのようなヨーロッパのユートピアンやロマン主義者たちに始まるものとしている。
『トクヴィル 平等と不平等の理論家 』 宇野重規 講談社 (2007/6)
p.42
古く頽廃した旧大陸に対して、むしろ素朴かつ自然と密接な新大陸にこそ、純粋で高貴な感情や習俗が残されているという夢想は、ルソーの「高貴な野蛮人」以来のものである。
【誰が高貴な野蛮人なのか】
●つぎつぎと立ち現れる「彼ら」
かつてはインディアン(アメリカ先住民)やアボリジニ(オーストラリア先住民)が、高貴な野蛮人(もしくは欧米人とは正反対の人々)として描かれた。でも、勝手な幻想は、対象となる民族との交流が増えるにつれ、リアルとのギャップがあらわになるわけで、どんどん使えなくなる。
自分側とは何かを規定するために使われる対比のサンプルとしての、他者・異民族幻想。
幻想の対象は、その後オセアニアの「無垢な人々」だったり、アフリカの「素朴な民族」だったり、さらには「大昔の平和な人々」だったり「心の清い障害者」だったり「愛にあふれる田舎」だったり、いろいろとっかえひっかえ現れるのだけれども。

【先住民が古代社会を今も保持しているという幻想】
●「狩猟採集民」ブーム
20世紀の半ばから、ヒト社会はどう発達してきたのかの研究の流れで、「古代人のような狩猟採集の暮らしをしている民族は、まさに古代人の暮らしのままであるに違いない!」という、なにかブームのような思いこみが研究者の間に広がってしまう。
ヨソの民族が、昔のヒト社会のまんまで暮らしている「彼ら」なのだという決めつけ。
『いまを生きる人類学:グローバル化の逆説とイスラーム世界』 大塚和夫 中央公論新社 2002/01
p.165
進化論的図式に従えば、おのおのの未開社会は、理論上、その発展段階に応じて人類史のなかの特定の位置におくことができるものと考えられる。そして、未開人は現代における過去の時代の人びとの生きた標本であるとみなされがちである。しかしながら、考察されている特定の未開社会そのものの歴史、すなわちその社会がどのような過程をたどって現にある姿になったのか、また今日どのような変化を経験しているのかといった課題の追求は、初期の人類学においては、ほとんど考慮されることはなかった。その意味で、「未開人」は歴史とは無縁の存在とみなされていたのである。
【クンサン族の幻想とリアル】
●例えば、カラハリ砂漠のいわゆるコイサンマン(クン・サン族/ブッシュマン)。
クンサンたちの言語は、特殊かつ古い起源を持っている。人種としても遺伝学的にけっこうレア。
そんなこんなで、人類学〜ヒト行動進化の研究者たちは「これぞ我らが祖先の狩猟採集民暮らしの典型だ!」と、さかんにヒト社会の進化過程をかいま見せるものだともてはやした。そのもてはやし方には「かつての社会は平和で善良で牧歌的で…」がつきまとう。
80年代だったか、日本でも映画「コイサンマン」が公開され、のどか〜な人々というイメージが染みついたんだっけか。クンサン族の暮らしを描いたエリザベス・マーシャル・トーマス著の書名も「無害な人たち(ハームレス・ピープル)」だったりするわけで、これぞ「高貴な狩猟採集民」てな風潮。
でも、風聞や印象をよっこして、実態のデータをはじき出してみると、その結果にみなは愕然とする。
クンサン族で発生する殺人の率は、銃社会で堕落した都会であるアメリカよりも高かった。一族郎党で、敵の一族を皆殺しに行くという悲惨な報復行動も行われていた。
研究が進むにつれ、クンサンに限らず、現代社会以外の暮らしにおける殺人や紛争の発生率は、「平和な素朴民」幻想を吹き飛ばす数値だぞという例が次々出てくる…。
『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か 上』 スティーブン・ピンカー著 NHKブックス 日本放送出版協会 2004/08 原書 2002年/ The Blank Slate p.118 ●また、現存する民族は、たいがい異民族との交流の中で成立してきているわけで、昔のピュアなヒト社会のまんまで暮らしているはずだ、という思い込みも調査が進むにつれガラガラ崩されていく。
『98%チンパンジー 分子人類学から見た現代遺伝学』 ジョナサン・マークス著 青土社 2004/11 (原書:2002/WHAT IT MEANS TO BE 98% CHIMPANZEE) p.227-229
社会生物学者は依然として彼らが「初期の人間」の代理人であり、すべての人間の進化が目指してきた楽園的な生活を送っていると考え続けていた。それに対して民族歴史学者の方は、生物学者が考える以上に興味深いクン・サン族の歴史を発見した。それは牧畜民、ヨーロッパ商人、植民地政策、経済的搾取の歴史であり、自然のままで世界の歴史から分離されていた状態とはほど遠かった。人間の本性に最小限の文化的影響しか受けていないと考えられていたクン・サン族は、まさにそうした世界の歴史の産物であったのだ。
[〜中略〜]
クン・サン族も他の人々以上に原始的でもなく自然でもなかったのだ。

『人が人を殺すとき:進化でその謎をとく』 マーティン・ディリー&マーゴ・ウィルソン 新思索社 1999(原書:1988/Homicide)p.465

【今も環境問題で使われるノーブル・サベージ幻想】
●環境施策でやられがちな、伝統を守り、昔ながらの暮らしを奨励せよといういざないも、良し悪し。
単純に「環境に優しかった先住民」を尊重すればいいというものでもない。今は昔とは違うからこそ、社会の変化・人口の変化・経済の変化に伴って 「共有地の悲劇」 が頻発するなどの問題が発生しているわけで、昔の知恵は、今の状況では通じなかったりする。
昔ながらの地元の意向に従った結果、野生生物が根絶やしになるケースは発生しうる。
昔に固着するのも良し悪し。参照しながら、状況に即した、より良い道を探らねばならない。

『自然保護の神話と現実 アフリカ熱帯降雨林からの報告』 ジョン・F. オーツ著 緑風出版 (2006/01) p.83
●自然とうまく折り合いをつけて行くには、どこかである程度「自然をあきらめなければならない」。
ある程度の人間の暮らしを確保していこうとしたら、どっかこっか、野生生物が絶滅せざるをえない部分が出てくる。
そこを、どう現実に折り合いをつけていくのか。
『生物多様性という名の革命』 デヴィッド・タカーチ (著) 日経BP社 (2006/03) 原書:The Idea of Biodiversity 1996
p.246
もしある土地の先住民が本当に環境に優しい生活を送っているとしたら、それは人口密度が低いためか、自分たちが依存している環境のうち孤立した一部のみを保全しているためだろうと示唆している。レイは「私には、『高貴な野蛮人』などというものが存在するとはとうてい信じられない」という。

【先住民保護の現場に去来する「高貴な未開人」幻想】
●実際は、今のこの世に「古代人」も「古代社会」も存在はしていないわけで、研究を進めれば、幻想もしおれていく。
そして、幻想を持ち続けたい人々(素直に信じているケースもあれば、幻想のイメージを使って世論を操作しようとする者もいる)との確執も生まれてくる。
『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か 下』 スティーブン・ピンカー著 NHKブックス 日本放送出版協会 2004/09 原書:2002, The Blank Slate
p.29
1970年代に発表されはじめた、進化生物学や 行動遺伝学 の考えは、ユートピア的なヴィジョンをもつ人たちにとってはこのうえない侮辱だった。ユートピア的なヴィジョンは、結局のところブランク・スレート(不変の人間本性はない)と、高貴な野蛮人(利己的な本能や邪悪な本能はない)と、機械のなかの幽霊(よりよい社会のありかたを選べる、拘束のない「私たち」)にもとづいている。

『環境人類学を学ぶ人のために』 パトリシア・K.タウンゼンド著 世界思想社 2004/02 (原書:2000/ENVIRONMENTAL ANTHROPOLOGY)p.142-143

『震える山 クールー、食人、狂牛病』 ロバート・クリッツマン著 法政大学出版局 文化人類学系 2003/11(原書:1998/ The Trembling Mountain)p.368

『徳の起源:他人をおもいやる遺伝子』 マット・リドレー著 2000/06(原書:1996/The Origins of Virture)p.351-356

【アマゾンの民の幻想とリアル】
●例えば、無垢で環境にやさしい暮らしをするアマゾンの善良な先住民を救え、という観点。
実際は、アマゾンの民は昔から状況に応じて環境破壊や希少種の絶滅を引き起こしてきたし、生きていくためにはなんでもブリコラージュ(工夫、合成、間に合わせ)し、失敗すればただ死に絶えていただけのこと。環境破壊は程度や影響の差こそあれ、ヨーロッパ人の到来前から幾度となく発生していた。

『自然保護の神話と現実 アフリカ熱帯降雨林からの報告』 ジョン・F. オーツ著 緑風出版 (2006/01) p.83
●「高貴な未開人」幻想に頼りすぎていると、幻想が潰(つい)えたあとに来る反動が怖い。
幻想に踊らされていた側:
「高貴な野蛮人」幻想を否定するあまりに、逆に状況を過小評価してしまう可能性が出てくる。「先住民は尊重しなくてもいいんじゃないか」。「連中は図に乗っている」。
「高貴な野蛮人」幻想を利用して世論を操作しようとしていた側:
実際には「高貴な野蛮人」は存在しないというリアルの合意が発生した場合、戦略の破綻によって逆効果(先住民を尊重しなくなる)を招いてしまいかねない。というか、そのヤバさを踏まえた上で「敢えて」やっているのではない 素朴な 運動家は、ことさらにヤバイ。
『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か 上』 スティーブン・ピンカー著 NHKブックス 日本放送出版協会 2004/08 原書 2002年/ The Blank Slate
p.231
土着の人びとは、もちろん自分たちの土地で生きていく権利をもっている。それは彼らが(あらゆる人間社会と同様に)暴力行為や戦争をする傾向をもっているかどうかにかかわらない。先住民の存続を高貴な野蛮人の教義に結びつける自称「擁護者」は、自分を厳しい立場に追い込んでしまう。それにあわない事実がでてきたら、意図せずに先住民の権利を弱めてしまうか、どんな手段を使ってでも事実を抑圧しなくてはならないか、どちらかになってしまうからだ。

【いまだにメディアに現れるノーブル・サベージ幻想】
●無垢で純朴な野生人たちが、都会の世間ズレしたお下劣成金野郎達にいぢめられてかわいそう。極悪な都会のお下劣野郎達にはいつか天罰が下るだろう。
こういう図式は… 聖書のエピソードにある 「ソドムとゴモラ」 パターンが影を落としているのかなぁ。頽廃し堕落しきった罪深き町が、ひとびともろとも神の天罰で破滅するという旧約聖書のアレ。
虐げられる無力で無垢な森の人間を「善」として登場させ、それに対して現れるのは、いやらしくふんぞり返って退廃的な飽食の暮らしを繰り広げる都会の堕落サル… 映画「猿の惑星(ティム・バートン版)」
虐げられる無力で無垢な森の狩猟採集民を「善」として登場させ、それに対して現れるのは、いやらしくふんぞり返って奴隷売買や生贄三昧(いけにえざんまい)を繰り広げる都会の堕落民… 映画「アポカリプト」 。
●西欧ではこの図式、たいがい陳腐でありがちな、ひんしゅくベタ図式らしいのだけれど、日本ではこのような図式を軸にした作品はある? とっさには想起できないけれど、ちょくちょくRPG系アニメとかで見かけたりするかな。
西欧モノでは、今年になっても、シラッと高貴な野蛮人幻想をベタに描いた差別趣味映画「アポカリプト」がお出ましになっていたりする。
映画「アポカリプト」の一連の感想群をブログサーチでしばらくヲチしていたのだけれど、話を、ベタな偏見プロット含め、すなおに真に受けている人々が多すぎて… 脱力してしまった。
感情で舞い上がらされた人々( 感情動員 )に、理屈で対抗するのはなかなか難しい…。
というか、こういうベタな筋書きをちゃんとメタに冷めて見ることができる(もしくは分析的・批判的に見ようとする)のは、単に「一般的」ではない、普通ではない見方だ、ということなのかな。いや、でも、作る側は意図的であろうがなかろうが、結果的に作為的にこさえているわけで、そこを一瞥できないと危ない… いや、いいのか、別にそこまで考えなくても、単に見て乗るだけで。それでいいのか。下手に逆らわずに乗せられているほうが幸せなのか。
どうなんだろう。

●幻想に乗るメリットと、デメリット。
いまどきは、メディアにいつのまにか気分のいいまま操作されてしまう、 フィール・グッド化されている私たち…
無垢で純心なネットワーカーがたごまるYahoo! の話あたりからすると、そのうち、無垢で素朴な感想を素直にブログに書いているような人々は、操作側からマーケティングしやすい客層としてどんどんデータベース化されていく、みたいなご時世になっていったりするのかな。
へぇボタン:へぇ〜
と押してみるもよし![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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