
『シリーズ物語り論 1 他者との出会い』
宮本久雄, 金泰昌 (編さん)
東京大学出版会 (2007/02)
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「物語り」とはどういうことなのか。
物語論でありながら、メタとベタのはざまを目指す試みである、「物語り」論。
もとより物語生成を業として物語の恣意性に絶息した関係から、いまだにブログにも物語カテゴリーをしつらえてしまうほど、物語にひっかかったままでいる自分なわけであるけれども、たまに「物語論」と銘打つ書籍を拾って読んでみても、なかなかにピンとくるものは稀で。
そんななか、新刊情報で目についたのが今年の「シリーズ物語り論」3冊。



『シリーズ物語り論 1 他者との出会い』 宮本久雄, 金泰昌 (編さん) 東京大学出版会 (2007/02)
『シリーズ物語り論 2 原初のことば』 宮本久雄, 金泰昌 (編さん) 東京大学出版会 (2007/03)
『シリーズ物語り論 3 彼方からの声』 宮本久雄, 金泰昌 (編さん) 東京大学出版会 (2007/04) このうち、
『シリーズ物語り論 1 他者との出会い』が一番面白かった。なにせ、しょっぱなの論者が「科学哲学」ですよ。いきなり嬉しい方向に意表突かれまくり。生命・医療倫理ありいの、科学史ありいの、民族問題ありいの、かなり選択分野がポップ。異分野クロッシング。
... 以下つづき...

科学のナラトロジー(narratology)を講釈構想する野家啓一氏。
キーワードは
ヘイドン・ホワイト的「ハイ・ナラティヴィスト」
ポール・リクール的「ロー・ナラティヴィスト」
「ナラティヴ・ベイスト・メディスン(NBM)」
物語りは世界を理解可能なものにすると同時に現実を受容可能なものとする概念装置 p.9
ストーリーとプロットの違い
説明可能性(accountability)と相互性(reciprocity)
それらを踏み台にして指摘されるのが、「科学の人称性」の問題だ。
人称性 。
例えば、科学論文の記述に於いて、語りの「主語」をどうするか。
科学における「語り」の問題! いいね。わくわくだ。
自分が、観察したのか。
それが、示したのか。
我々が、そうみなすべきなのか。
そういえば、別の本
『うまい!と言われる科学論文の書き方 ジャーナルに受理される論文作成のコツ』に、以下のような指摘が記されていた。能動態と受動態
少し前までは,科学者は受動態を使うべし,というしきたりに縛られていました.一人称代名詞(Iやwe)は独断的であるとされ,無礼な感もあったからです.でも今は違います.今日の科学者はあえて,ワトソンとクリックのスタイルに従います.彼らは,1953年にDNAの構造を述べた有名な論文の冒頭のフレーズを,果敢にもweで始めています.
〜『うまい!と言われる科学論文の書き方』 p.8
科学において「我々は」と書き記すことがすでに横暴で不遜(ふそん)であり、「果敢(かかん)な冒険」だとみなされる時代があった。
客観と主観についての通念が、時代によって変化してきた、科学の「物語り」も時流とともに様変わりする。その端的な現れだ。
この「科学における人称性」の問題は、
●【発題3 記述すること・語ること 村上陽一郎】
においても、ほか討論においても言及されている。
20世紀の前半は「"I"は使うな、"we"もできるだけ遠慮しよう。"We show"と言わずに"It is shown"と言おう。(p.66)」てな調子だった。
それが60年代頃から「科学論文の主語に”I(私)”を敢えて使う」運動が盛り上がったりしたらしい。
観察や発見において観察者の視点がはらむ偏向がどのように作用してくるのか、見えたものそのままに対する自戒というか反省、そういう”気づき”が沙汰されるようになる前と後。時代で移り変わった客観/主観問題が、まんま反映されてきているわけなのか。
科学における人称性のみならず、発題や討論で俎上にのぼる論点は、言語論から医療現場、韓国における人称の扱い、バルトにアーレントにポール・リクール。話の広がりが嬉しい。
『シリーズ物語り論 1 他者との出会い』
【目次】
発題1「物語り論の可能性」 野家啓一
発題1を受けての討論
発題2 「病いが語る生の姿」 森岡正芳
発題2を受けての討論
発題3 「記述すること・語ること」 村上陽一郎
発題3を受けての討論
発題4 「キリスト教美術における俗と聖との境界線の曖昧さ」 名取四郎
発題4を受けての討論
総合討論1 コーディネーター:金泰昌
人称性と身体/「近代」の超え方/物語の多義性/医療の中の「わたくし」/多様な「物語」のあり方
発題5 「『あいぬ』物語の躍動」 藤井貞和
発題5を受けての討論
発題6 「私の詩・表現と琉球弧の文化」 高良勉
発題6を受けての討論
総合討論2 コーディネーター:金泰昌
言葉・共同体・舞踊/他者と応答/他者との確実な結び/言葉によるアイデンティティの捉え方/あれも、これも、それも/公共哲学を物語る
発題7 「他者とことば−− 根源への回帰」 岩田靖夫
発題7を受けての討論
発展協議 コーディネーター:金泰昌
物語の地平と展望/ボーン・アゲインというストーリー/英雄の「物語」と民衆の「物語」/多くの「物語」の存在がイデオロギーを圧倒する/日本に不足するパーソナル・パラダイム/「発見」でなく「共創」を/詩と公共世界/ナラティヴとフィロソフィーの相克/「善い物語」「悪い物語」/「制度世界」からの「生活世界」の自立へ
特論1 「苦難と他者の物語地平−− 「ヨブ記」の生成・転法的物語論的解釈から」 宮本久雄
特論2 「べートーヴェン・その愛と運命のロンド」 丘山万里子
特論3 「羽根を交わす蝶たち−− 李良枝の物語における異邦人感覚が向かうところ」 郭基煥
特論4 「小さき物語の群れから」 小菅信子
おわりに −− 四つの電話対談 金泰昌
お題提示の講演があって、そのあとパネラーとステージ上で討論。要するに土台は講演会とシンポジウムの記録。
個人の考え方がボンと出されて、それについて他者と会話が交わされていく。わかりやすい、対話は面白い。それぞれの視野、意図(思惑)、そのズレやバリエーションが面白い。スリリングな干渉波紋の模様の妙。
この本自体は、4年前の2003年に開かれた第四八回公共哲学京都フォーラム「他者との出会いと物語・語り・表現」を元に編まれている。(※ 「特論」の4本はフォーラムとは別途に原稿を依頼して収録した論考)
…4年前!? 第2巻が2004年の、第3巻が2005年のフォーラムから編まれており、三部作でまとめて完結としたかった関係で、ということなのだろうけれど、4年経ってから出すというのはいくらなんでも発酵させ過ぎで風味半減じゃないだろうか。
とはいえ、全然賞味期限切れじゃない部分、今だからこそ精彩を放つ部分も含まれている。
例えば今、遺族をさいなみ苦しめている光市母子殺害事件の裁判。その「ドラエモンがなんとかしてくれる!? 犯人の物語がなぜ今ごろ改変されるのか」の怪を読み解く鍵が、この本には記されていたりする。
物語とはなんぞや。
脳のエピソード記憶と感情記憶が織りなす、外界情報改変用のスキーマ(鋳型)… というような脳科学方面からの切り口は、残念ながら登場してこない。というか、この流れに適切な口をはさめるほどにはまだ脳科学は成熟できてはいないのだろう。(少なくとも4年前の時点では)
いわゆる社会的構築 論に食指が動く人にも、この『シリーズ物語り論』は強くお勧め。
物語りなくしては、ヒトはコミュニケーション不能。そして物語は、いまや調和的に交わりはしないし、その交われないことに乗じたミニマムな物語りが量産されているような状態。
昔、幼い頃、「宗教を信じるにはまだ早い」と強く思ったことがある。それはおそらく、いずれかの長大な物語りに呑み込まれて安住することに対する忌避だったのだろう。(いや、単に仏教徒のおせっかい野郎に聖書(!?)の読書会に行けと言われてキレただけなんだが ヽ(`Д´メ)ノ )
もう何の希望もなくなるのであれば、いずれかの長大な物語りに呑み込まれて安住するという他力本願の逃避もありかな、と思ったりもする。
独り孤絶して死ぬことに抵抗がないうちは、呑み込まれには行かないだろう。
他者の物語を拒否し、他者を物語りに編み込まない。
死者よ、抗弁せよ。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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