どのようにして、入力されてくる情報が感情に振り分けられていくのだろう。
なぜその情報が、愛憎のスイッチを入れるように作用するのか。
なぜその情報が、満足感につながるものだと判断されるのか。
そのしくみは、 _この先も_必要なのか。

ダニエル・ギルバートとダニエル・ネトル。
奇しくもそれぞれの「幸福」本の邦訳がこの春に出版され、それぞれのタイトルの付け方が「ちゃうんちゃう」という話は、前にギルバートの本について書いたときに記した。
さて、今回はダニエル・ネトルの本のほう。

『目からウロコの幸福学』
ダニエル・ネトル (著)
オープンナレッジ (2007/03)
[ Amazon ] [bk1]
原書より風船が一個増えてますね。


『Happiness: The Science Behind Your Smile』
●しあわせ:あなたの笑顔の裏を科学する
Daniel Nettle (著)
Oxford Univ Pr (T) (2005/05/12)
書籍情報と書評:アマゾン 日 米 英.
ダニエル・ネトル。
この名は 『目からウロコの幸福学』にはネトル氏の写真が載っていた。
「え!? 顔ちゃうやん!」
『消えゆく言語たち』が表紙に載せていた

なお、当該書『目からウロコの幸福学』に載っているダニエル・ネトル氏のご近影と著者略歴、両方ともネトル氏ご本人がウェブページに載せている内容のまんま丸写しです。
ダニエル・ネトル氏のページ (イギリス・ニューカッスル大学)また別のお写真(インタビューつき)はこちらに。
2003/09 Personality: A User's Guide (人格入門) by Daniel Nettle BBC - The Human Mindほか、ダニエル・ネトルにからむメモは楽屋に置いてあります。
【1】短期的な幸福と、長期的に見た幸福は、別物だ。
【2】幸せをもたらす3つの要素
【3】金は、その意味合いしだいで幸福度が変わる ほか

当該書『目からウロコの幸福学』に話を戻して。
... 以下つづき...

ネトルは淡々と、今現在、科学的には幸福はこうみなしうるようになっている、という話を進めるだけ。
淡々と話をしているだけなのだが、結果的に「幸せのありかは自明的な物だとみなしていた旧弊な視野に暮らす人が、科学的な言明にけつまづいてたじろぐ」場合に、『目からウロコの幸福学』だと思うのかもしれない。
あ、そうか。邦訳を出した出版社の人が、「幸せのありかは自明的な物だとみなす旧弊な視野に暮らしていた人」だったから、こんな『目からウロコの幸福学』みたいな日本語タイトルをつけてしまったのか。orz
邦訳は読みづらい。「ですます調」の語尾なんとかしてくれ。おまけに妙にひらがなが多くて頭が悪そうな文面になってしまっている。
みょーに気持ち悪い。内容は、幸福についての進化心理学。しかもすこぶるまっとう。

心理学専門のギルバート本
記述は… 巷向けではあれども、具体性が色気ないので「幸せって何?wktk!」みたいな純朴夢見系の読み手には少々つらいものがあるかもしれない。


幸福に関する科学的知見は、いまどきずいぶん充実してきている。
【幸福という研究対象】
それら知見を踏まえて、「ヒトの幸福感はどうしてこんななっているのか」ネトルは進化心理学にそった講釈をならべていく。
「p.25 進化心理学によって、幸福という概念も、立派な研究対象としてあつかわれるようになりました。」
この”進化心理学的開陳”は、下手な進化心理学学徒がやると、むちゃむちゃキモいもんになるんだよな。女のひがみや男のプライドにぐちゃぐちゃしてみたり、ふんぞり返った高みから衆生の道徳観念を逆撫で放置するゲテモノ記述になったり、意味不明なこじつけ自己満足の連発になって異臭を放ってみたり。
ネトルにはそれがない。
安易な価値判断にくみしない。
透徹している。
p.25
われわれが進化によってプログラムされているのは幸福そのものではなく、なにが幸福をもたらすかをめぐる信念であり、幸福を追いかけようとする性癖です。そのことからいくつかの、普遍的でありながら奇妙な事実の説明がつきます。すなわち、人は今より将来の自分のほうが幸せだろうと信じていますが、実際にそうなる人はほとんどいないということ。社会が裕福になったからといって、人々がより幸せになるわけではないこと。そして、将来の出来事がいかに自分の幸福を左右するかについて、人は常にまちがった認識を持っているということ。
『幸福はいつもちょっと先にある』ように見えるだけであって、ちょっと先には実際には幸福はない。
「ヒトに見られる幸福予測のトンチンカンさ」については、もうひとりのダニエル(ギルバート)も

ネトルはまず「幸福」とされるものを3つに分類し、2つの結論を出す。
『レベル1の幸福:一過性の感情的happy』直截的。今、どう?
『レベル2の幸福:暮らしの満足度』おしなべて、どう?
『レベル3の幸福:善良なる生活の理想』人としての安寧/ウェル・ビーイングのありようとは。
★1:通念でいう幸福は、たいがいポジティブな感情に関わるレベル1やレベル2どまり。
異なる次元の「レベル3の幸福」(道徳的理想)まで含めた幸福論をやってしまうとワヤになる。(そのワヤさまで踏まえた幸福論・行動遺伝観の構築であれば、歓迎なんだが>A氏)
★2:「人間は幸せというものに、なかでも特に、幸福感を強める方法というものに、心底惹きつけられる p.41」
惹きつけられて、期待を裏切られてガッカリしていたのがギルバート本
そして、「もっと幸福」話にやたら敏感でかまけやすいこのヒト性向の進化的適応性を、ネトルはさらりと述べ済ます。
p.55
人間の脳に組みこまれた幸福プログラムの目的とは、人間をより幸せにすることではなく、幸福になるための努力をつづけさせることにある
それがゆえに、幸福欲と、実際の幸福は、食い違っている。
効率を極めれば幸福が得られるという誤謬(ごびゅう)にもさっさと釘差しを済ませる。p.32(経済学者が功利性で幸福を測りたがる:いわゆる合理的経済人だのホモ・エコノミカスだの)
効率と幸福はベツモノ だ。国が効率を先鋭化させると、国民は不幸になる。
そういえば、先週こんな報も流れていたっけ。
死に値札を付けよ
2007/06 Scientific American Putting a Price Tag on Death
お金で幸福が買えるならば、愛する人を失った代価はいくらになるだろうか?
喪失の苦しみと、適切なお金の量を秤(はかり)にかければ、もっと合理的な裁判所の判断が出るだろうに 〜経済学者
障害者の死の代価がゼロ円という報が過日ショッキングだったこの日本。
「金」はヒトの欲望の量。
愛も、欲望。
ならば、換算してしまえばいい。 …換算できる?

この経済学者たちは、
・喪失によって減少した幸福度ポイント
・金銭獲得によって上昇する幸福度ポイント
この方法で「幸福は換算しうる」としている。
アイデアとしては面白いとしても、このような計算が「納得しうる」ものかどうかはまた(文化にもよるし)別の話だ。
「満足度に影響するのは絶対的な富ではなく、相対的な富である p.89」については、
に書いた”優越感中毒”(雨崎の表現)の話を思い出す。前半にはちょうど、レベル3の幸福をほかの幸福レベルと混同している悪例も置いてあるし、おいしいかも。
そしてこの”優越感中毒”にからめて、ネトルは「子孫を残せるかどうかは、絶対的な健康ではなく、相対的な地位に左右されてきた p.102」とする経済学者ロバート・フランクの見解を紹介する。
欲と幸福はすれ違っている。ネトルは脳科学からもその点を強調する。
p.144
あるものへの「欲望」をつかさどるメカニズムと、手に入ったものを「好きだと思う感覚(快感)」をつかさどるメカニズムは、まったく別物なのです。なにかを強く求めていながら、それが手に入ると、ほとんどあるいはまったく喜びを感じないということもありえるのです。
人間の心理でも、欲することと好むことが乖離している例を挙げることができます。
欲すると、幸福になれるとは限らない。効率と、幸福は、一心同体ではない。さらにいえば、繁殖と幸福も、財産と幸福も、食い違っているのに、繁殖=幸福、金持ち=幸福、欲を満たす=幸福という「間違い」がでかい顔して横行する、それさえも、ヒトにとっての進化的な適応性があればこそ。
まさに”生きられた誤謬”。
未来に幸せがある、何かが変わればもっと幸せになれる、そんな妄想も、進化のしがらみが我々に刻みつけた”賢い無知”(雨崎の表現)の刻印であるわけで。
(ん、めんどうだから雨崎的な表現は””でくくることにしよう)
さらにいえば、そのような”誤謬のミーム”と”幸福欲”の共進化が、ヒトのありようと密接に絡み合っている。脳内モジュール動作の発露である”幸福欲”だけにかまけても、”幸福誤認のミーム”だけを先鋭化させても、どちらかだけではヒトの未来はありえない。存続したければ、両者のバランスを、折衷案を採るしかない。
”幸福欲”を止揚(しよう)できない限り、ヒトは昔も今も見ている”間違った幸福像”を追い続け、”アスナロ幸福”妄想の中を生き続けるしかない。

幸せに関する欲は、実際には幸せにはつながらない妄想だらけだ、と事実を述べ立てるだけであれば、ギルバート本
こちらネトル本のほうは、進化心理学テイストの論理立ての上に、「幸せになる科学的な方法」を述べる配慮を試みているぶん、なんぼか「幸せになるコツ」中毒者の期待には添える体裁になっている。
ex.
マインドフルネス認知療法 その「幸せになる科学的な方法」の開陳(かいちん)を戸羽口(とばぐち)に、ネトルは一歩進めて「欲望の放棄」も視野に入れた語りを提示する。
p.181-182
重要な方法が、欲望や欠乏感をきっぱり捨て去ることなのです。
[〜中略〜]
欲望の放棄はストア派哲学の主要テーマであり、多くの宗教的伝統でも頻繁にあつかわれる問題です。キリスト教においては、欲望からの脱却は元気/モラール/ではなく倫理/モラル/の観点から推奨されます。けれどもそれは同時に、飽き足らずに最後には自滅を招く、特に物質面での欲望から人々を救いだす方法として、心理学的にも有益なのです。
一方、東洋には昔から、みずから進んで簡素さを求め、欲望を巧みに操作しようとする文化が根づいており、特に仏教では、幸福は外面の飾りではなく心にあると教えられます。
ネトル本、締めのくだりは、我々はこれからどうすれば良いか、だ。
うつ病が増えている。自殺が増えている。グローバル化やネット化で、 生活世界・生活共同体 が瓦解して、人心が環境の異質さにささくれてきている。
これまでの長い人類史上、人心のバランスは、地域コミュニティとの相互作用を前提に形成されるものだった。人心を守る効果があった地域コミュニティが機能不全に陥ると( 生活世界の空洞化)、人心は弾力性を奪われてしまう。折れやすくなる。
幸福を増加させようと精進してきたはずのこの世が、実際にはヒトを不幸せにしてきている? 我々の進化的由来を、我々がこさえた環境が逆撫でしてしまっている? 幸福になろうとする自分の行いが、結果的に自分の首を絞めている?

【幸福の社会設計】
ネトルが語りかける
・ヒトを、社会を、幸福にするものは何?
・より良い社会に向けて、自分の文化で許容できる改革はどれ?
・自分の文化で残しておきたいと思う美点はどれ?
国じゃなく、政策でもアーキテクチャ(社会設計)やエリート主義でもなく、皆に語りかけている。
自分の文化で。
ネトルは言語学畑から進化心理学に来た者だと目されているが、これは、文化人類学の香りが高くないだろうか? 体でフィールドワークをこなし、肌で相対主義に震え、芯から価値観を 踏み抜いた者。そして里に還ってきた者。そういう踏み抜きを十全に踏まえた上で、彼は叙述しているように思える。
「自分の文化で」。その枠立てを前提にしている。
「自分の文化以外の文化はそれはそれとして」。
宮台真司方面の 田吾作/エリート言説と比較すると、自分の目にはキツイものが浮かび上がる。
宮台方面が唱導するのは、少数のエリートが、有象無象の無明なザコを飼い殺す”羊飼いの図”。格差を肯定し、全体のアーキテクチャを「作ってやる」という大上段な パターナリズム にのっとっって、隠微に大衆を操作する。統べられる側は、統べる側の掌中ではなから踊らされるだけ、自分の文化を選択するような状況にはならない。 有識者と無知大衆の二項対立 。統べる側からの視点ゴリゴリ。
ネトルは、無明を脱した(期待と妄想の機序を把握した)大勢が、おのれの性向に自覚的に、それぞれに暮らしたいゲームを選び( アーキテクチャの選択)、合議して居場所を構築していこうとする図。
宮台方面は選民思想…密教的? ネトルの方向は大乗(大衆参加)と言うことになるだろうか。

【踏み絵に応えよ】

自分は、そういえば、社会設計から(進化心理学側から)考えると”羊飼いの図”になり、自分はどう暮らしたいかと考えると、意味世界を選び移れる(チャンネルを変えられる)世界がいいなと構想していた。2つの面から、バラバラに構想していたわけだ。
自分は進化心理学に対しては、
『おのれの性向を十全に踏まえた上で、進化心理学を語っているのか』
と問いかけてきた。あまりにおのれの姿に無頓着なぐちゃぐちゃ進化心理学が多かったゆえ。
”羊飼い”たるには、おのれの進化心理学的由来をしかと見据えることができていなければならない。宮台方面の用語で言うなら 言語ゲーム やあたりの話だろうか。
進化心理学の場に
『生きることは良いことですか』
と踏み絵も投げた。
踏み絵を踏む応えをした者は、学際唱道者のS氏一人だけだった。
S氏の応えは「生きるようにできているから生きることは良いことだ」だった。
がっかりした。
正しい応えは「生きることは良いことではないが、生きるようにできているから生きることは良いことだ」であるべきではないのか。
この違いが…。
S氏は正しい応えの前段を省略したのだろうか? 少なくとも応えた当時はS氏は「生きるようにできているから生きることは良いことだ」と素朴に信じて素朴に応えていた、のか。それとも、S氏が私をめちゃめちゃ見くびってくれていたのか。
それはともかく。(というほど自分的には軽い問題でもないのだけれど)
・ヒトを、社会を、幸福にするものは何?
・より良い社会に向けて、自分の文化で許容できる改革はどれ?
・自分の文化で残しておきたいと思う美点はどれ?
ネトルの言葉の開かれ方は、ポーズだけなのだろうか。 操られる側が「自分で選んで行動している」と信じるよう仕向ける、社会設計者一流の詭弁(きべん)に過ぎないのだろうか。
文化の多様性を排除する「一国の政治」気取りのまま社会設計を構想し、不条理(に見える状況)に対する異議申し立てをも 「嫉妬する勉強田吾作」呼ばわりで掃いて捨ててくれるような印象がある宮台方面の言論よりは、こんころもちはいいけれど。
ネトルの言葉の開かれ方が、詭弁ではないのであれば、ネトルは民衆の理解力をポジティブに信頼しすぎてはいないだろうか。民衆は信頼に応えられるだろうか。
ネトルは、チョイスの余地を提示している。文化の多様性を大前提に。
欲の根も見抜いている。その上で、こんな性向の生(ヒトという動物)を生きることを選んだ者は、その生をどんなアーキテクチャの中で費やすか、開かれたチョイスで投げている。
一箇所の意味世界に縫いつけられることのない、生きた平行世界。一つの アーキテクチャに囲い込まれるのではなく、単一の政策下で懐柔(かいじゅう)されるのじゃなく、複数のチャンネル、選べるアーキテクチャの中から、おのれが生きる世界を自由意志で選び取る、自分で選んだ世界に生きていこうとする図。
(極端にいえば、セカンドライフに所属するか、mixiか、地域社会か、会社人間か。見ようによっては、単にちまちました ゾーニング(棲み分け) に終始するということになるのかな。)
幸福(心理的安寧)というもの自体、今と同じままでありつづける保証はない。
そのようなありようさえをも射程に含められるほど、ネトルの問いかけは広く開かれているように思える。
・ヒトを、社会を、幸福にするものは何?
・より良い社会に向けて、自分の文化で許容できる改革はどれ?
・自分の文化で残しておきたいと思う美点はどれ?
開かれたチョイス。選択肢の自由。
『消えゆく言語たち』で 言語の死(異質な意味世界の終焉)を看取り、文化のサンクチュアリ(保全区・保護区)を歩き、地域文化の重要性を見てきたネトル。
異文化を看取るのにふさわしい人だ。
そう直感する。
ミメーシス か?
いや、仲間か。
同類。いままで一人も見つからなかった同類。
異文化を看取るのにふさわしい者。しかと 踏み抜いた者。
この人の前でなら死ねる。 この人の足元で死にたい。 ここなら安心して死ねそうだ。
20年待って、ようやく、そう思える進化心理学語りに会えた。
ごめんね、変な顔描いて。

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