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3年前、
【3】 『スピリチュアリティの現在 宗教・倫理・心理の観点』(2003年) [ Amazon ] [bk1]
●湯浅泰雄「霊性問題の歴史と現在」
・スピリチュアリティの語の流行りは、WHOの健康定義に入れる提案が出た1990年頃から。
・WHOへはインドが提案し、イスラム圏諸国が賛成。先進諸国には慎重論が多い。
・最も影響が大きかったのは、WHO加盟に中国(東洋医学大国)が加盟したこと。
・中国の人体科学は、中国医学、気功研究、超能力(特異効能)研究の三分野から成る。
●永見勇 「スピリチュアリティとキリスト教ーー身体性と三位一体論の関連を通して」
●島薗進 「先端医療技術の倫理と宗教 −− いのちの始まりとスピリチュアリティ」
・ヒト胚研究倫理:最厳=ドイツ、最も寛容=英国やシンガポール、イスラエル
●葛西賢太「「スピリチュアリティ」を使う人々 −− 普及の試みと標準化の試みをめぐって」
・「霊性」に対する抵抗感と「心の成長」としてのスピリチュアリティ
・WHOの健康定義にスピリチュアリティが組み込まれていくのは1980年代からある流れ
・WHOは呪医等のネットワークを活かして近代医療を普及させてもきたわけで
・WHO提案のリストが、基督教徒はともかく、おおかたの日本人の感覚に合ってない
●大宮司信・村田和香「精神医学とスピリチュアリティ」
●渡辺学 「ユングと自己のスピリチュアリティ −− 自己の四つの位相ををめぐって」
●岡野治子「フェミニスト神学の視点から社会倫理を再考する −− スピリチュアリティ・平和をめぐって」
●宇都宮輝夫「人生物語としてのスピリチュアリティ −− 現代医療の現場で」
【3】 『スピリチュアリティの現在』(2003年)は、WHOのスピリチュアリティ定義からからめて人選したからか、医療・精神保健の面でスピリチュアリティを今後どう扱っていけばいいのか、という観点が多くを占めていた。
スピリチュアリティという乱暴なくくりに、当時は違和感ばかりが先に立った。
その当時から3年。
スピリチュアリティの研究はさらに広がりを見せ、多くの関連書籍が出版されてきている。


【1:スピリチュアリティの心理学】【1】 『スピリチュアリティの心理学』(2007年)は、トランスパーソナル心理学を基幹に、主にスピリチュアリティを外から見た心理学・精神医学研究者の見解が並ぶ。
各分野においてスピリチュアリティは近年どのように展開してきたのか概略を述べている論考が複数あり、状況をつかむのに便利。スピリチュアリティの定義についても、それぞれの立場からの定義の試みが述べられており、立体的につかみ出すことができる。
堀江氏は、スピリチュアリティに関わるさまざまな主張を「言説」としてとらえてその影響や操作動向を総括し(江原啓之の手法についての分析込み)、中村氏はスピリチュアリティがどのような心理学的尺度で測りうるかを概観し、松本氏は非暴力運動を含めた平和心理学とスピリチュアリティの可能性を探っている。
林氏はスピリチュアリティという「問い」と「答え」の位相をきわだたせることでスピリチュアリティという動的なベクトルの姿を照らし出す。「スピリチュアリティ」をそのまま語として用いるのではなく、さまざまな日本語の単語に、ルビ:ふりがなとしてかぶせていくという案は、たいへん親しみやすい。
... 以下つづき...

【1】 『スピリチュアリティの心理学』(2007年)
●安藤治 「現代のスピリチュアリティ その定義をめぐって」
・スピリチュアリティとは、従来の「宗教」概念から組織面・制度面を排したもの
・終末期医療・緩和ケアで重要視される霊的苦痛(スピリチュアルペイン)への配慮
・DSM-IVにもスピリチュアル概念が取り入れられている
・医学教育にスピリチュアリティ・カリキュラムを入れる動きも
●堀江宗正「日本のスピリチュアリティ言説の状況」
●棚次正和「スピリチュアリティと医療と宗教」
●西平直 「スピリチュアリティ再考 ルビとしての「スピリチュアリティ」」
●中村雅彦「スピリチュアリティの心理学的研究の意義」
・スピリチュアリティの人生上の重みは中高年層以上で大きくなる
・「スピリチュアリティ」をルビとして多様に用いる方策
●林貴啓 「スピリチュアリティにおける「問い」と「答え」 「問い」の位相から見えてくるもの」
●松本孚 「平和の心理学が問いかけるもの」
・全体性・一体性としてのスピリチュアリティが利己的遺伝子を抑えるよううながそう
●中川吉晴「教育におけるスピリチュアリティ」について トランスパーソナル心理学との関連で」
・政教分離の原則や道徳教育の必要性から、スピリチュアリティ教育は宗教教育に優る
●石川勇一「心理療法実践とスピリチュアリティ アクチュアリティヘの接近」
●青木聡 「心理療法の「内省」とスピリチュアリティ」
●吉村哲明「神秘体験と病い スピリチュアル・エマージェンシーの1例と変性意識状態誘発性精神病概念の提唱」
●伊藤義徳・安藤治「現代の心理療法と瞑想研究 認知行動療法における新たな展開」
・適切な心理教育がないと、参加者は少なからず不安から瞑想を中断してしまう
・仏教における教典や説教には、実践への迷いを払う心理教育機能があるか
瞑想によりどのような効果を得るために、どのような手続きを踏むことが正しいのか、という点について心理教育を行うことで、こうした反応は減弱する可能性がある。考えてみれば、、悟りに至る
●合田秀行「仏教と現代のスピリチュアリテイ」
●村本詔司「仏教と心理学」
●桐田清秀「鈴木大拙の「霊性」考」
●湯浅泰雄「日本人のスピリチュアリティ」
かなりの読みごたえ。
【スピリチュアリティという概念の発明】【1】、複数の論考で指摘されているが、「スピリチュアリティ」はイコール宗教ではない。
「宗教的」「神秘的」な特定の心理的反応を起こす性質は、しかとヒトには備わっている。だが、旧来の宗教概念では、今どきの「宗教離れ」著しいながらも頻繁に観察される信心っぽい行動や性向は、うまく指し表せない。
超常的なものに惹かれたり、超常的な物語に解決を求めたりする性向を表す言葉としての「スピリチュアリティ」。宗教に代わる広い射程を持った便利な言葉として、近年さまざまな分野で重宝されている。
この新しい言葉の使い勝手の良さは
今どきの生活や制度では懐柔(かいじゅう)しきれない心のつらさ、多様に発生する心の歪みを、全部突っ込んでレッテルを貼ってしまえるような、融通無碍(ゆうづうむげ)に大きな葛籠(つづら)としてのスピリチュアリティ。
スピリチュアリティの名のもとに、さまざまな「心の手当」が模索されている。


【2:スピリチュアリティーとは何か】【1】『スピリチュアリティの心理学』(2007年)とほぼ同時に出たこちら【2】『スピリチュアリティーとは何か』(2007年)は、上掲2冊【3】【1】とは大きく異なり、すでにスピリチュアリティ実践側に入ってしまった、ひとつの前提の向こうに身を投じなさっている各分野からの報告がメイン。
尾崎真奈美・奥健夫「スピリチュアリティーに関する学際的研究の意義 −− カテゴリーエラーと要素還元主義克服への挑戦」
スピリチュアリティーに関する研究は,トランスパーソナル学においては測定不可能であり,それを記述する試みは,主観的領域に対する暴力でさえあるとする立場もある。専門領域による方法論や捉え方の違いによって引き起こされる見解の相違は,科学と宗教,主観と客観といった二極分化した対立概念で捉えられる傾向が多く,双方の対話は安易な折衷主義となり,結局は統合にはいたっていない。つまり,どちらも大切な視点であるといいながら,自らの専門領域以外に対する手厳しい批判をもたないまでも,互いを理解しない単なる寄せ集めか,他分野には関知しないといった無視する態度にとどまっている傾向がある。
〜p.7 【2】『スピリチュアリティーとは何か』(2007年)
スピリチュアリティは外から観測しえる(とみなしたい)、と見えるスタンスが少なくなかった【1】 『スピリチュアリティの心理学』と読み比べると、中の人【2】、外の人【1】の、世界の違いがきわだってたいへん面白い。
というか、中の人と外の人が共存できないから、同時期に別々に【1】【2】の本が出ることになってしまったとか?

【脳・神経科学と進化心理学の居場所はあるか】
さても、これらスピリチュアリティの アンソロジー【1】【2】【3】に、脳科学や進化心理学の知見が一個も出てこなかったのは、なんでだろう。医療、教育、心理、物理、舞踏、たくさんの分野から論者・研究者が寄稿なさっているのに、生物学・生理学・脳科学・進化心理学方面からの声が欠落していたのは、なぜなんだろう。
自分が見落としただけなんだろうか。(最近よく目が疲れるんだよね)
【1】で、林氏は、スピリチュアリティという「問い」と「答え」の位相をきわだたせることでスピリチュアリティという動的なベクトルの姿を照らし出していた。ならばその動的なベクトルを発している脳内モジュールは、そしてその進化的適応性は、という方向にすぐに話をスライドできるではないか、とも思うのだが、そこへは行かない。あくまで、物語(解釈)の中で収束しようとする。
【1】で、松本氏は、全体性・一体性としてのスピリチュアリティが利己的遺伝子を抑えるよううながそう、と唱導する。それはすなわち、利己的遺伝子の概念(そして心の生物学)がその分野ではうまく理解されていないことを露呈してくれているように見える。
ヒトには群れる性質が備わっている。群れるには、その成員には集団所属によって快感が起こるスイッチがあると便利。個々人の目先の行動や利害を超えた、不条理な服従行動を起こせば、いろいろと適応的でございましたという、進化上の集団営巣しがらみが、脳内にくっきり刻み込まれているのが、人間。
集団をまとめる結着剤、ボンド、靱帯、整列剤。
音楽によって引き起こされる一体感、集団力。
そのヒト性質の発露が、いわゆるスピリチュアリティであり、「問い」の発生の根にある情動のベクトルであり、進化心理学的に言えば… などという物言いは、これスピリチュアリティの考察現場においては、あ り え な い ものなんだろうか。
スピリチュアリティと生物学は「異分野には関知しない(【2】p.7)」、厳然と越えがたい奈落の亀裂に隔てられているんだろうか。生物学抜きで成り立つスピリチュアリティであり、スピリチュアリティ抜きで成り立つ進化心理学。 …でなければならない?
安直にクオリアを礼賛する日本の脳科学、そのノリからして、なんも気にせずスピリチュアリティにも首突っ込んでくるような気もするのだが。単にクオリアうんぬんにかまけているのは研究者ではなく”日本のポピュラー脳科学者”だけなのでした、ということなのか。
うん、スピリチュアリティの現場に進化心理学が食い込むとしたら、まず神経屋さんや脳屋さんが橋渡しに入っていないと難しいだろうか。直で進化心理学屋さんが人心慰撫の場に混じるのはきついだろうか。
「殺してやる(マーダラー・ネクスト・ドア)」のバスや「ボヴァリー夫人の卵巣」のバラシュ、アメリカの進化心理学屋の言動は非道すぎる。そもそも、衆生の心を救うポジションには進化心理学は口を挟むべきではない存在だとして、きつい自戒のもとに終始するべきなんだろうか。
イギリスのドーキンスも偏向しすぎだし(「宗教を子どもに押し付けるのは児童虐待だ」)。そのように横暴な物言いを振り回すのなら、こちらも「それら進化心理学の提示の仕方は、そも人心にとって適応的ではないのだぞ」と、彼らと同じ進化心理学の土俵で切り返すべきであって。
ひるがえって、スピリチュアリティの現場にも齟齬をきたさないほど人心に適応的な進化心理学の提示の仕方は、今の段階でありえるのか。これは行動遺伝学や脳科学にも言える。これらヒト生物学が、スピリチュアリティ(というヒト脳内モジュールの発露)との邂逅を適切に果たすには。
これらの 牛たちは、まだ山を降りていない。

山を降り、里に現れる牛の姿は。
ひとつのありようとして、
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と押してみるもよし
![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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