
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』
レイ・カーツワイル (著) 日本放送出版協会 (2007/01)
[ Amazon ] [bk1]
原書:2005 / THE SINGULARITY IS NEAR: WHEN HUMANS TRANSCEND BIOLOGY
●テクノロジーが世界を巻き込んで幾何級数的に発展していく
テクノロジーの発達は、直線的に右あがりなのではなく「指数関数的」に、ぐ、ぐぐ、ぐぐぐぐぐ・ぎゅんっ!と飛躍的に伸びるぞ。
テクノロジーは世界をこう変えて行くぞ、どんどんテクが満ちてあるところにまで達すると、わっと来るぞ展開するぞ、 『ティッピングポイント』どころではない、飽和点、「特異点:シンギュラリティ」にまで達すると、もうあとは予測不能な超未来世界が広がるぞ。
そんな、ヒトが延長された表現型によって生物学的限界を超える日のことをせいいっぱい描きあげるこの本。
p.16
特異点とはなにか。テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来のことだ。それは理想郷でも地獄でもないが、ビジネス・モデルや、死をも含めた人間のライフサイクルといった、人生の意味を考えるうえでよりどころとしている概念が、このとき、すっかり変容してしまうのである。特異点について学べば、過去の重大な出来事や、そこから派生する未来についての見方が変わる。特異点を正しく理解できれば、人生一般や、自分自身の個別の人生の捉え方がおのずと変わるのだ。特異点を理解して、自分自身の人生になにがもたらされるのかを考え抜いた人のことを、「特異点論者/シンギュラリタリアン/」と呼ぼう。
「特異点論者/シンギュラリタリアン/」。
でもって、この著者・特異点論者は、この先どう特異点が到来するのか、その予兆、展開、予測、延々自分のフィールドを中心に推論を述べて述べて述べまくる。
たいへん雄弁というか、しゃべりたがり? なんせ本文600pに註65p。 やぁたら分厚い。
著者は「アメリカでは大変に著名な」「発明家・起業家」であり「予言を的中させる未来学者」。(あとがきより)
その未来予言は、文化、伝統、慣習はおいてけぼりにしたアメリカンな楽天的展望に満ち満ちている。
p.496
人類とテクノロジーの融合は、破滅に至る坂道を転げ落ちる危険性をはらんでいるものの、それはより輝かしい前途へとなめらかに上昇していく道であり、ニーチェの言う深い淵へ滑り落ちるものではない。
来たるべき未来を予測しろ。さらなるテクノロジーの先を見ろ。
こんな言説は絶対ヨーロッパ産じゃないよね。「What can be done, will be done」。
IT系やサイバーパンカーにはたいへんウケの良い内容であるらしい。
新型マシンの展望。
分子コンピューティング、DNAコンピューティング、スピンコンピューティング、光コンピューティング、量子コンピューティング… 幾何級数的に、飛躍的に伸びていくハードウェア、IT・ネット、ナノテクノロジー…
この本の原題は「ヒトが生物学的限界を超えるとき」。
話は当然、これから来るべき医療技術の数々にも及ぶのだが、その視点はあくまでテクノロジーから見た医療世界。
今の我々の体なんぞは旧式の「バージョン1.0の生物的身体」呼ばわり。
p.19
われわれの現在備えているバージョン1.0の生物的身体も、同じようにもろく、無数の故障モードに陥ってしまう。身体を維持するのに、厄介な儀式が必要なのは言うまでもない。人間の知能は、ときには高い創造力や表現力を発揮できることもあるが、その思考するところのほとんどは、たんなる模倣にすぎなかったり、たいして重要でなかったり、制約があったりする。
特異点に到達すれば、われわれの生物的な身体と脳が抱える限界を超えることが可能になり、運命を超えた力を手にすることになる。死という宿命も思うままにでき、好きなだけ長く生きることができるだろう(永遠に生きるというのとは、微妙に意味合いが違う)。人間の思考の仕組みを完壁に理解し、思考の及ぶ範囲を大幅に拡大することもできる。二一世紀末までには、人間の知能のうちの非生物的な部分は、テクノロジーの支援を受けない知能よりも、数兆倍の数兆倍も強力になるのだ。
いやはやいろいろとぶちあげなさる。
サイバネ、人工臓器、神経-マシンインターフェイス。
特異点を越えた向こうに立ち現れるのは「バージョン2.0の人体」。
脳のリバースエンジニアリングに、取り替えの効く人体パーツ。人工血液。医療用ナノボット(ミクロの決死圏!)。ワイアド、プラグド、ネットに融合していく意識(『生物都市』はサイバーパンクに融合し…)
... 以下つづき...

著者曰く、人類の寿命が延びたら、資源が枯渇してたいへんなことになんじゃないかと恐れる必要はない、寿命を延ばせるようになる頃には、それ相応に未来のテクノロジーが資源を増やしてくれているのだから p.26。実現できるときには、それなりに問題は解消されていて、実際に実現してしまうんだぞ。
すべてはこんな調子。いや、実現したときのことを予測しているから、という微妙な循環論法?
どちらかというと、自分側の文化、自分側の階層のことしか視野にない感じが強い。問題は、じゃあ彼の視野は間違いなのかというと、そうでもないこと。ただ、彼には関係ないだけなのだ。確かに彼はその視野の中で成功してきたし予言も的中させてきた(すでに1990年代いくつもの近未来予想を的中させてきている実績をお持ち)。今までも、これからも、彼の視野の中では、ほかの文化やほかの階層は関係がないままでいい、これで正解なのだ、これが「実現した場合の」未来。実現させれば、あとは自然についてくる。(なんかとってもアメリカン)
実現はするだろう、この路線で。ただし、それは特定の層だけ、選民にだけ到来するビジョンだよな。
階級が違う下層民は、アメリカとは違う文化の歩みを是とする者は、テクノロジーの恩恵どころか、ベーシックインカムも満たされぬままに地べたに捨て置かれる。そんな絵はどうなのか。彼の未来ビジョンには翳りは少ない。

さあ、もう間もなく到来する「バージョン2.0の人体」はこんな感じですよ。
・心臓も、循環器系疾患の心配のない人工心臓が普及する。p.393
・栄養摂取と消化器官はそれ用のハイテクで代用され、食う必要がなくなる。p.390-391
・美味の堪能は、栄養摂取とは別の技術によってダイエットも気にせずに自在にできるようになる。
・呼吸もナノボットが酸素の供給と二酸化炭素の除去をやってくれるので肺要らず。p.394
・内臓システムの全面的な再構築に伴う混乱を克服し、われわれは新しい肉体をどんどん頼りにし始める。
・人体自体も、流行や目的に合わせてどんどん可変なしろものになり、美の基準は拡散する。p.399
云々。
旧来の体(バージョン1.0)に備わっているような、誰かと会食することによって相手に対する心理が変化する特性を持つ脳、感情によって発汗や消化器の動きまで同調してくる人体、そういう進化生物学的由来による性質のありようはほとんど省みられない。未来的なインターネットコオロギ(リアルで社交する必要がない人々 参照)にはもはや不要なものか、視野にはなさげ。
全般に、心理機序の適応性についての考察は欠落している状態で、著者的にはそこらも無問題扱いっぽい。
可能なことは実現するし、実現するときには可能だから、問題ではなくなっているから実現する。
世界が変わるから、それにつれて必要な脳・心理もまた変わるから。あとからどうとでもなる?
テクノロジーによる脳の改変も行われるから、それに見合った世界が繰り広げられるから。
その筋ではたいへん著名である著者は、すでにさんざつっこまれ慣れているのだろう、書きようにそつはない。
ただ、つっこまれ慣れてはおれども、孤独感は吐露している。
p.491
特異点論者であることで、わたしはたびたび疎外感や孤独を味わってきた。出会う人のほとんどが、わたしの見方を受け入れてくれないからだ。

ははは。例えばこれね、
武田邦彦著『環境にやさしい生活をするために「リサイクル」してはいけない』のp.157、右のみたいな挿し絵があって、ワイアードにされた奇態な未来の人間像を恐怖していなさった。これを見たまま恐怖するか、姿の向こうに「接続された女」の美女デルフィや「マトリックス」の理想郷を見て取るか。

p.495
[哲学者のマックス・]モアはまた、文化の側からの反乱についても懸念している。「『平和』と『安定』を求め『思い上がり』や『未知なるもの』に反発する宗教的、文化的な衝動によって引き起こされる」反乱がテクノロジーの成長を頓挫させかねないというのだ。わたしは、しかし、大幅な逸脱はまずないだろうと考える。二つの世界大戦(およそ一億人が犠牲となった)や冷戦、そして度重なる経済、文化、社会の大変動といった歴史上例を見ない大きな出来事が起きたときでさえ、技術革新は少しもペースダウンしなかった。とはいえ、今日の世界で表面化しつつある、反動的で思慮に欠けるアンチ・テクノロジーの気運が、苦しみをさらに悪化させる可能性は十分にあるだろう。
そのようなテクノロジーに対する一部庶民のむやみな恐怖もなんのその、いずれは市場経済の要請(人間の欲)に後押しされて伸びまくるハイテク。この世にハイテクが満ちあふれ、「特異点:シンギュラリティ」が到来する頃には、すなわちみながそれを受け入れるように時が満ちているであろう、と想定するわけか。
…人間の欲は、今と同じままなのか?
p.25
人間の歴史の構造が崩壊してしまうことになる。そうした印象は、いずれにしても、テクノロジーにより強化されていない古典的で生物学的な人間の見方にすぎないのだが。
p.397
二〇三〇年代までには、人間は生物よりも非生物に近いものになる。第三章で述べたように、二〇四〇年代までに非生物的知能はわれわれの生物的知能に比べて数十億倍、有能になっているだろう。
…その新しい世界の展開は、おそらく著者の側でだけ発生するんじゃないか。著者が見ている世界の側で、下層民の世界ではなく、上流階層で、そして新しもの好きのネットワーカー側から(人体実験には、臓器提供に準ずるような形で下層民がいいように使われていくのかも)。未来テクの恩恵を受けることができない層も、恩恵を必要としない価値観の層もあるだろうに、でも、それらの格差も含めて、著者的には時代が来ればみんなそれなりに変わる?
「特異点:シンギュラリティ」が到来するとき、「特異点:シンギュラリティ」の向こうに雪崩れていく人類は、みな平等にいっせいにではなく、特定の層だけだよね。「特異点:シンギュラリティ」を超えることが生活上・資力上、可能(適応的)である層から。
「特異点」を超えた存在は、バージョン1.0のヒト心理とはかけはなれた機序で存続し続けようとするわけよね?
…格差社会、極まれり?
行動遺伝や脳研究を推進する政府。自己愛や生存欲から金を惜しまない人々。
どっちにしろ、未来を探るこの本の中では、そも愛情や存続欲の正体が何であるのかという点は、二の次だ。
人心2.0や3.0でも、人間(もしくは元人間)は、愛情や自己愛にかまけ続けるだろうか?
人心2.0や3.0になったら、いつか色恋や存続欲などどうでも良くなるときが来るだろうか?
それとも、いつまでも、いつまでも、存続しているオノレを正しいとこじつける、生存欲の自画自賛に囚われたまま、執着欲を再生産し続けるだけなんだろうか。
人心2.0や3.0における適応的な心理機序とは、どのようなものなのか。
今とどのくらいかけはなれてくれるんだろうか。
バージョンが変わっても、延々人権だのジョン・ロックだのカントだの自由意志だの言っているんだろうか。
いやいや、アメリカンな著者的には、見える世界は一神教に彩られているらしい。しかもむやみな進化礼賛つき。
p.521
進化の流れは、複雑性、優雅さ、知識、知性、美、創造性、それに、愛といった微妙な属性、その全てを一層深める方向に進んでいく。ありとあらゆる一神教の伝統において、神はその全てを有し、しかもいっさいが無限である −− 無限の知識、無限の知性、無限の美、無限の創造性、無限の愛をもつ −− と説かれてきた。もちろん、加速しながら進んでいく進化でさえ、無限のレベルに達することはとうていできない。しかし、指数関数的に急激な進歩をとげながら、進化は確実にその方向へ進んでいる。進化は、神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ。したがって、人間の思考をその生物としての制約から解放することは、本質的にスピリチュアルな事業であるとも言える。
なんかなぁ。このオチは、かなり萎える。
でも、この未来礼賛ビジョンは、テクノロジー開発や研究最前線に従事する人々には大変明るく好ましいものとして映るらしい。
人類以後の未来予測ものは、今生きている人間が世代交代でこの世を去ったあとのことを描いていることが多いのだが、この『ポスト・ヒューマン誕生』は、今生きている人間が目にするであろう範囲の近未来、2030年や2040年あたりのことを予測している。その時点ですでにバージョン2.0の人体が登場するのだと。
ほんとか?
きら星のごとく次々に列挙されるニューテクノロジーとそれが受容された世界。
皆の衆、心の準備はできているか?
※ すでに実現しているサイボーグ技術のあれこれ:
2005年まで
●歴代の情報庫: 人工生命・ロボット・サイボーグ

●「特異点(シンギュラリティ)」というアイデアはけっこう古くからあるらしい。
ひととおりシンギュラリティについて述べてある記事があったが、これすでに6年前のもの。
2001年【日本語記事】ワイアードビジョン 人工知能は人類の友だちになれるか?(上) …前世紀前半のヌースフィア(テイヤール・ド・シャルダン)とその「オメガ点」を髣髴とさせるけれど、「特異点」もこの手の路線に含めてしまってもいいものなのかな?
最後の審判とか、時が満ちると何かが世界全体を変える、そういうビジョンに救いを求める傾向は、どうなんだろうな。なんぼか文化的にローカルなものだろうか。
特に「これだ!」という点もないまま、ふつうに世界は変化していくものだとは思うけれども、どこか「革命的な一点が生じるはず」という「物語感」が、やる気をもたらすような効果があったりするのかな。

●人間は、インストールされた物語に影響されたまま人生を過ごす動物だ。
しかも、すでに取得した物語に親和的な物語ばかりを摂取したがったりする。
ポスト・ヒューマン誕生という物語に、拒否感を感じるか、親和感を感じるか、その違いは自分の中のどんな既存の物語が原因になっているのか。
人間の幸不幸は、テクノロジーに関わらず、その者が取り込んだ物語しだいだ。
『ポスト・ヒューマン誕生』の著者は、物語も心理もなんのその、テクノロジーと時期が満ちれば次のフェーズに雪崩れ込むとみなしている。その物語自体、一神教物語のベースの上に描かれているのだが。
人間のすべてを縛る「物語」という存在、このくせものを見ておかないと。
今読みたい!と発注しているのはこのシリーズ。おもしろいのかな。

『シリーズ物語り論 1 他者との出会い』 宮本久雄, 金泰昌 (編さん) 東京大学出版会 (2007/02)
『シリーズ物語り論 2 原初のことば』 宮本久雄, 金泰昌 (編さん) 東京大学出版会 (2007/03)
『シリーズ物語り論 3 彼方からの声』 宮本久雄, 金泰昌 (編さん) 東京大学出版会 (2007/04) 
追記:2007/06/03
この本の著者に言及した記事が流れていた。
2007/05 【日本語記事】ワイアードビジョン 長寿を求めて人体にハッキングする人たち(1)
![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







次の記事 














