こういう「製品感」…というかなんというか、購買感覚は多いんだろうか?
いまどきなんでも「バージョンアップ=機能改善」「Web 2.0」「新製品=より良いもの」なのだという感覚が、わりとデフォルトになっているというようなことは、ある?
時代によって「新製品=悪」という感覚が主流になる場合がある、ということは、あまし認識されていなかったりする?
・よけいな機能までごてごて付けまくり、使い勝手の良いシンプル製品が
市場から失せてしまったバブリーな時代
・安全性を無視した新規な商品どもが健康被害を再々もたらしていた時代
・「変える必要のない」生活を異文化の製品が蹂躙しにくる図 …
これまでどんな時代の移り変わりがあったか、覚えてる?

「温暖化の〈発見〉とは何か」
スペンサー・R.ワート著
みすず書房 2005/03
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【100年前】昔、地球温暖化はとてもいいことをもたらすように思えた時があった。(100年前のスウェーデン〜p13「温暖化の〈発見〉とは何か」)
19世紀末的には、次々もたらされるテクノロジーの変化は「どれも最善の結果を生むはず」のものだった。
当時は地球上の全人口はやっとこ10億人、その大部分は科学技術に縁のない農耕民たち。作物のデキを毎年好き勝手に翻弄(ほんろう)してくれる大いなる自然に対して、かよわくしょぼしょぼな人間どもが、なにか取り返しのつかないひどいことをしてしまえるなどとは想像もつかなかった。これから人類の個体数がどんどこ増えていってくことなんて、よくわかってもいなかった時代の話だ。

【20世紀半ば】二酸化炭素が増えると、温室効果で地球が温暖化すんじゃないかと指摘されはじめる。
でも、一部の学者からの「特定の計算をするとそんな数値が出るんだけど?」どまりであって、実際の測定値もなく、計算に考慮に入れるべき各種条件も揃えきれていない状態では、「かもね」のまんまで何をどう判断できるでもなく。
まして、当時の第二次大戦のトラウマの中では「この先、人口は減るだろう。後進国も発展できやしない」というビジョンが優勢で、20世紀のわずか100年間に世界人口は4倍、二酸化炭素排出量は16倍になる!とは全然想像されていなかった。
1950年代末から、今風の「地球の気候を観測する」作業が進められはじめるが、数値を入手できても、それを予測につなげる「計算手段」がなかった。


【1960年代】公害問題が相次ぎ、人間の営みが自然に対してえらいことをしでかしてしまうのかもしれない!!という危惧が広まる。核実験の横行で、雨を浴びると「禿げるぞ」、気候変動は「あの国の核実験のせいじゃないか」、などとうわさされもする。さらに「地球の気候は急に激変する可能性があるかもしれない」と沙汰されはじめるけれど、地球の気候観測のほうは資金難で中断してしまうなど、対策は後手後手。
おおかた目前の高度成長や公害のほうにかまけてばかりで、気候変動に関しては温暖化どころか「氷河期が来るか!?」みたいな雰囲気だったかと。

【異分野間で通じない】始動した各種の気候研究プロジェクトは、しょっぱなすんなり立ち上がったわけではない。
科学者と名が付けば、みな同じ種類の科学者だと思うのは浅はか。科学の分野にも、そこに仕える科学者にも、それこそやたら目を剥くほどのバリエーションがある。
物理学が好きなタイプは、心理学が好きなタイプとはえらい違う。天体観測が好きなタイプは、魚介類研究家とはだいぶ違ったりする。
そんな「分野で違う人間のタイプ」さまざまが、気候研究という学際的な場をこさえるにあたって、けっこうな障害になったらしい。(「温暖化の〈発見〉とは何か」p47)
統計重視の気候学者はデータ収集の連絡緊密システム志向研究室タイプだし、海洋学者は汗・ヒゲ・現場のゴーイングマイウェイ冒険家タイプ。
分野によって、データの正確さや標準化の流儀が違うわ、用語の定義も計測の手法も違うわ、知恵を持ち寄るための基本線を作ること自体が、まずもうたいへんにめんどうな作業だったんだ。

これヒューマンドラマにすると、かなり面白い作品になるかもしれない?
... 以下つづき...


【1970年代】ベトナムとアクエリアスの世があけて。
アメリカ vs ソビエトの冷戦時代は核軍備競争がひどく、いつなんどき核戦争が起きてもおかしくないという地獄図に、世界がおびえていた。「核の冬」が来る! 人類は、ローカルな地域環境どころか、マジ地球規模ですべての環境を破壊してしまえるのだ!
地球は過去に何度も大きな気候変動を起こしていた、という証拠データも溜まってきた。それも「短期間に劇的に」。
このまま人間がバカ続けてると「母なる自然」は思わぬしっぺ返しをしてくるのではないか!?
エコロジー運動が花開く。新しい技術を危険視し、ホーリズムやガイア理論など、地球全体を視野にした自然マンセー運動が広がりを見せる。
それでもまだ「地球が温暖化している」という話のほうはうわさどまりで、明確な対策目標としては表舞台には出てこない。
市民運動は自然破壊へのブレーキとして働きかけはしたが、気候研究へのアクセルにはなりきらず、気候研究への予算も研究の盛り上がりも不十分なままだった。
大部分の科学者は自分たちのことを、さまざまな度合いの不安を抱きながら霧の中を手探りしている一群にすぎないとみなしていた。
(「温暖化の〈発見〉とは何か」p135)
科学者にとっては、しかとした予測が出せない現状では、実際の政策に関わることは無謀な賭けでしかない。政策にアドバイスをするには、もっと多くのデータや研究の蓄積がなければ、そしてもっと多くの予算がなければ、無理なこと。

【1980年代】今現在のネットユーザは大半が30代以下の年齢層だから、実感として記憶にあるのはこの1980年代以降だろうか。
地球規模での気候計算技術が熟するとともに、一般の人々にも「地球は温暖化しているかもしれない」という認識が広まりはじめる。実際に「マジ地球は温暖化しているぞ」と断言できそうなデータがそろいはじめるのもこの頃から。
とはいえ、「何が地球温暖化を招いているのか」については、1970年代に「フロンガスがヤバイ!」という発見がなされていたにもかかわらず
1980年代に入ってからだいぶたっても、一般大衆、政府官僚、さらに大多数の科学者ですら、「地球温暖化」は「CO2の増加」と本質的に同義語だと思っていた。その間に、何千トンものその他の温室効果気体が大気に流れ込んでいたのだ。
(「温暖化の〈発見〉とは何か」p.163)
という状態だったりする。
1980年代には「メタンもヤバイ!」「海洋循環が止まるかも!」も温暖化問題のラインアップに登場している。
温暖化に対する対策がまともに議題に上るようになるのは1980年代の末から。
国際的な「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」ができたのも1988年…。

【科学者の慎重さが裏目に】科学は、正確さを求める。正確にわからないことは、わからないという。ある程度、ヤバイなと思っていても、不確かであれば、もっと研究しなければ確実とは言いきれない、と言ってしまう。
一般人は、偉い人が「言いきれない」というと、「考慮しなくていい」と受け取ってしまう。微妙なニュアンスは切り捨てられる。微妙にヤバイのに、ヤバイと思わなくてもいいのだとみなしてしまう。
科学者と世間の食い違い
2007/01 LiveScience.com Why Americans are Skeptical of Their Role in Global Warming
アメリカ人が地球温暖化における彼らの役割に懐疑的である理由
早急に温暖化対策が必要だとみなすアメリカ人は4割たらず
でもどの程度の脅威なのか定かではないし
6割以上のアメリカ人は、科学者の意見が一致していないとみなしている
科学者は慎重に報告してくれるが、庶民的にはその慎重さが「このデータは信じなくてもいい」と言っているように見える
科学者は、どのくらい強くメディアに語ればいいんだろう?
政策を決める際のデータの不確実さの責任は、誰がとればいいんだろう?

【ヨソから真綿で締められる】自然に間近にいる人々(貧困層や僻地)や、人のいない自然の世界が、まず地球温暖化からの仕打ちを受ける。次々始まっている温暖化の被害は、都会の裕福な人間にはとんと関係なかったりする、少なくともそうやって看過されがち。
代替エネルギーや技術開発でなんとかなるでしょと傍観を決め込んでいるアメリカ人連中はともかく、深層海流の停止で小氷河期に見舞われるかもしれないという危機に直面しているイギリスでさえ、こんな調子だ。
2007/04 BBC News Britons 'ignoring' climate fears
気候恐怖を『無視している』英国人
英国人の5分の2は、エネルギー消費を減らす努力を何もしていない
8割の国民は気候変化が英国に影響を及ぼしていると思っているにもかかわらず
間近にない恐怖は、存在しない恐怖。

【どっちの気候ショー】温暖化しているのか、いないのか。

地球温暖化は、「実際にこのように温暖化してしまうのです」と実例を挙げるわけには行かない。地球規模の証明実験をやるわけには行かないし、証明を待ってもいられない。
証拠を示す必要がある場合、コンピュータシミュレーションを助け船に使うことになるのだけれども、それで結果を出すにしても、ものすごい多岐にわたる膨大なデータと、複雑なシミュレーションを重ねた上での話であるので、わずかの加減で異なる結果が出ることもあるわけで、この21世紀を迎えても、今年「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」がムリクリ世界に向けて「対策とってくれ」と声明を発表しても、まだ、「それちゃうんちゃう」というヒザカックン攻撃はあとをたたなかったりしている。
「アル・ゴアに不都合な真実」ビョルン・ロンボルグ元稿:2006/09 Inconvenient Truths for Al Gore Bjテクrn Lomborg Skeptical Environmentalist
全世界の温度−これって科学?それとも政治?
2007/03 EurekAlert Global temperature -- politics or science?
地球温暖化についての全ての討論は妄想だ、「全世界の温度」などという概念は、数学的にも熱力学的にもありえない
〜Bjarne Andresen
気候『リスク』の上で力説される勧告 〜Paul Hardaker and Chris Collier
2007/03 BBC News Caution urged on climate 'risks'
Two leading UK climate researchers criticised those among their peers who they say are "overplaying" the global warming message.
2人の著名な気候科学者が、 一部の科学者が世界の温暖化を「強調しすぎている」と批判
Useless Arithmetic: Why Environmental Scientists Can't Predict the Future
●役立たずな算数:科学者が環境問題の未来を予測することができないその理由
Orrin H. Pilkey, Linda Pilkey-jarvis (著)
Columbia Univ Pr (2006/12/8)
書籍情報と書評:アマゾン 日 米 英
2007/03 American Scientist Misuse of Models .
(「温暖化の〈発見〉とは何か」p.243 )
一部の懐疑論者は、地球温暖化などまったく起こりそうにないと信じつづけていた。彼らは気候の理論が不完全な部分すべてを執拗に指摘した。そして、現在利用できる莫大な量のデータの中に、自分の見解を裏づける断片をそこここで見つけた。彼らは「地球温暖化」など社会的構成物にすぎないと信じていた −− 手に持つことのできる石のような事実というよりも、あるコミュニティーによってつくり上げられた神話のようなもの。なんといっても、科学者のコミュニティーが誤った見解をもったのちに集団としての意見を変えたことは何度もある、と批判派は指摘した。専門家はかつて温室効果による温暖化の可能性を否定していたのでは?専門家はつい最近の一九七〇年代まで、新たな氷河時代の到来を警告していたのではないか?
そう、わずか数十年の間に、地球の気候に関する見解はコロコロさまがわりしてきている。
でも、大部分の科学者は、温暖化否定派の論に「説得力があるとは思わなかった − それどころか、ほとんど興味すら感じなかった」(「温暖化の〈発見〉とは何か」p.243)
わずか数十年の間に、地球の気候に関する見解がコロコロさまがわりするほど、たいへんな予測ができてしまうほど、科学的な研究が劇的に進んできたのだから。

【平均値? 基準値の錯誤】みながこぞって努力をしなければならない場合、大きな努力に見合う報酬が用意されていない場合は、努力の平均値を伝えてしまうとマズイかもしれない。
例えば、100点満点のテストなら、100点のほうがもちろんいいわけだから、平均値が55点だと言われても、一応みんな100点は目指してくれる。
でも、資源対策の場合、100点満点の努力を求められても100点とった人が一番おいしい思いをできるわけではないわけで、そこに努力平均値が55点だよと伝えてしまうと、55点より良い成績の努力家は、「なんだほかの人間はもっとさぼっているんじゃないか」と上を目指さなくなる可能性がある。
これはヤバイ。
基準値の錯誤
2007/04 ScienceDaily Energy Use Study Demonstrates Remarkable Power Of Social Norms
人間は、”社会的に普通”な状態におのれを近づけたがるもの
アル・ゴアが、アメリカ人一人が年間平均7.5トンの炭素を出しているという場合、
7.5トン以上出している者は自粛を考えるが、7.5トン未満の者は「なんだもっと出していいのか」と考える
いわゆる

【自然のままに論】ややこしいことに、地球の気候変動は「自然なのだ」とみなしている人々がいる。
気候の変動は人間のせいではなく、母なる自然の、自然な変化(神のみわざ)なのだと。
ということで、神(自然)のなさることにあらがってもしようがない、いや、神(自然)にあらがうべきではない(温暖化したいとおっしゃるなら温暖化させておきなさい)というご意見になる。しかもこれがアメリカにけっこういたりするらしい。

科学者と世間の食い違い
2007/01 LiveScience.com Why Americans are Skeptical of Their Role in Global Warming
アメリカ人が地球温暖化における彼らの役割に懐疑的である理由
早急に温暖化対策が必要だとみなすアメリカ人は4割たらず
原因が自分たちではないのであれば、母なる自然のなす事をコントロールすべきではなく耐えるべきだ

【妄想の投影合戦、そして政治】科学者が長年「温暖化については確実には語れなかった」が、今、ここまで確実に言えるようになった、その歴史と経緯は上の本「温暖化の〈発見〉とは何か」がほんとうに丁寧に追ってくれている。巻末にはお手軽な年表も備わっている。
「確実には言いきれない」が、科学者がなんらかの判断もしくはアドバイスをしないとマズイ!
そういう事態は気候のみならず、「生態系」の問題でもごちゃまんとある。
温暖化の生態系つながりで、政治と科学の混戦状況を見るにはこちらの一冊が便利。

『生物多様性という名の革命』
デヴィッド・タカーチ (著)
日経BP社 (2006/03/16)
(The Idea of Biodiversity 1996)
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ひどいカンチガイ装丁をほどこされているけれど、中身は硬派。
「生物多様性」という概念の歴史と実態をいろいろ調べてくれている。
1986年に開かれた「生物多様性に関するナショナル・フォーラム National Forum on Biological Diversity」から広まった「生物多様性」という概念は、環境政策上、ものすごい便利な発明だったんですね。
(地球温暖化は現象の「発見」だったけど、生物多様性は概念の「発明」だったんだね)

・どの生物を守ってどれを見捨てるか、多様性を第一にすれば
そんなジレンマから解放される。環境全体を対象にできる。
・パンダやヒョウだの、目立つ生物だけに保護が偏ることを防げる。
・遺伝子から、個体から、種から、環境から、まとめて扱える。
・どんな生物がいるのか調査しきれていなくても、
絶滅危惧種の有無に関係なく、多様っぽいだけで保護策を進めてしまえる。
・「自然を守れ」よりは物事を科学的に考えてもらえる。
・”神が人間に与えた自然管理権”を発揮する口実に便利。
生物多様性においては、地球温暖化同様に「確実には言いきれない」部分が多いのだが、地球温暖化にはあまりみられない意味操作、つまり生物多様性に対して科学(客観性)を装いながら主観的な「価値」を想定して世論や政治の意見を左右しようという動きが顕著。その価値の想定が、ややもすると信仰に近い様相をも帯びてくる。
母なる自然。
神秘の生態系。
尊い多様性。
進化は善。
無知な人間は自然の力を補佐するがいい(これは地球温暖化問題では逆効果?)
『生物多様性という名の革命』
p.219
生物学者は知識の客観的な調達者であり、だから彼らの保全の処方箋を私たちは支持しなければならないなどと、簡単に認めることはできない。有効にして公正、かつ永続性のある保全策を知りたいならば(私自身もそうだが)、もっと微妙な叙述が必要だ。私たちの誰もが、誰がどのような理由で自然のために発言しているのかを理解しなければならない。
p.220
物事が見かけ通りであることはめったにない。科学における言語や行為が何かを装っていても、実際には正反対のこともある。客観的は主観的かもしれないし、職業的は個人的、非政治的は政治的、理性的は非理性的、そして真実は虚構であるかもしれない。
p.292
論理的に説明できないまったく未知のものに遭遇したとき、人はスピリチュアルな要素に目を向けたり、スピリチュアルな感情を持ち出したりする。伝統的宗教に似て、生物多様性のスピリチュアルな力は、われわれがそれについての知識を欠いていることと結びついている。一部の生物学者は、研究生活の大部分を生物多様性のただなかで過ごしたために、その底知れない複雑さと崇高な美が、自分の無知を恥じる感覚と結びつき、強いスピリチュアルな感情を呼び起こされる。彼らは研究すればすれほど、自然への畏敬の念を増していく。未知なるもの、科学の聖なる世界が埋めることのできない溝が、価値やスピリチュアルな要素、美が人り込む余地を与える。その結果、スピリチュアルなものは公理的な、科学の問題になりうるものになっていく。
スピリチュアルな力に屈した科学者たち。
人の頭の手におえない複雑さに、無力感を感じ、畏怖した末の、自然信仰。
…物理学や遺伝子科学でもちらほらしているアレのこと?
とはいえ、彼らは科学者なので、あくまで科学者であろうとし、宗教っぽい運動(例えばディープエコロジー方面とか)に関わることは避けようとするのだそうな。
本来ドライな印象を持たれがちな科学者が、こと生物多様性においてはどんなに「信者」っぽくなってしまうのか、どのように報道メディアを操作しようとしているのか、『生物多様性という名の革命』は科学者への直接インタビューでことこまかに観察・分析している(サイエンス・スタディーズ)。
そのあたり、共同体的信仰頼みや意味操作ではなく、どこそこの国のぬけがけが悪いだの、技術開発でなんとかなるだのと利害基準・利潤的カケヒキが強く出る「地球温暖化に対する政策」のありようと比較参照していくと、切っても切れない隣接分野であるだけに、いろいろと「同じ環境科学なのにねぇ」と面白い。

【地球と政治と消費者庶民】生態系の問題も、地球温暖化の問題も、「ほっといたらあかん」。
誰かが、「こうするべきだ」を打ち出す必要があるんだけれど、その打ち出しの根拠が、そして受け取る人々の意見が、またさまざまだ。意見がなかなかまとまらない。
そういう、さまざまな人々の意向をかっさらって「この旗の元に集え!」となびかせてしまう、また、「心に訴えるものになびいてしまう」安直な性質が、人間には備わっていたりする。
いやいやあかん、カリスマとか、政治とか、集団操作とか…そういう話までくっつけていたら話長うなりすぎてかないませんがな。

とりあえず人心操作や環境と消費の動向がらみで、この2冊、おすすめです。読み合わせてみてね。

「消費伝染病「アフルエンザ」 なぜそんなに「物」を買うのか」 ジョン・デ・グラーフ著 日本教文社 (2004/11)
光文社新書 『行動経済学 経済は「感情」で動いている』 友野典男 (著) 光文社 (2006/05)

なお、
「温暖化の〈発見〉とは何か」と、
『生物多様性という名の革命』、ともに欧米の動向を研究した書籍であって、日本の科学者はどうであったのかはまた異なる様相なのかもね、とは注記して、ここでどっとはらい。2007/05/16
この記述も織り込んで書く予定だったのが、忘れてた。orz
住明正「地球温暖化問題の今後の展開」
>地球温暖化そのものに関する議論をするよりは,
>温暖化した気候の下でどうやって世界の人が幸せに暮らせるかを
>考えるべきであるというような論調になりつつある。
『進化でどこまでわかるか? 日本進化学会2006年大会特集』 エヌ・ティ・エス (2007/02) p.168
アメリカあたりの「自然(神)が温暖化するというなら自然のままにさせて人間は耐えましょう(人間が温暖化させているのではない)」に通じるものがあるようなないような。
本稿を書きなおしきれないので、付記だけでここはギブアップ。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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