[ EP: 科学に佇む心と身体 ]

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「遺伝教育学」はどう展開するのか

カテゴリ[科学に佇む2007年] 2007/04/25
 しきりなおしというか、続きのエントリです。
 前のエントリ → 『行動遺伝研究を、世間や各立場はどう見ているか』
 主賓は慶應の安藤寿康氏です。
 雨崎はろくたらレスポンスを返せておらずすみません。>all

◆左表紙
要するに「行動遺伝学が」という話じゃなくて。
『「遺伝教育学」なるものを打ち出した場合、どのような展開が想定されるのか』

「遺伝教育学」とは。
遺伝についての知識を教えるという話ではなく、
生徒の遺伝子が示す素質に基づいた教育、が「遺伝教育学」かな。

遺伝教育学とは遺伝についての知識を教育するための学問という意味ではない。生命活動をつか
さどる源である遺伝子のはたらきとしての人間のあらゆる営みを、教育という視座から科学的に解釈し説明できるような新しい学問体系のことである。

〜 安藤寿康『「遺伝教育学」は可能か』
  所収 田中克佳編『「教育」を問う教育学 教育への視角とアプローチ』 慶應義塾大学出版会 (2006/04)


 安藤寿康氏は、教育における「遺伝要因」という含意を、「遺伝教育学」という看板を打ち出しくくることによって、何が見えてくるかを問いたい。
 ヒトの性格、嗜好、知能、才能。
 いずれにも、遺伝要因は影響している。
 影響のしかたは科学研究によって次々に明らかになっていく。
 では、それら情報を加味し、これから来たりうる「教育」のありようとは、いかなるものになりうるのか。
 じゃじゃーん。

... 以下つづき...

〓〓〓 EP 〓〓〓

ちょっと閑話。
 雨崎は教育学門外漢で、このたびの全国学力テストの問題もそんなに追ってはいないのだけれど、たまたま読み合わせた『「教育」を問う教育学』『現代思想 2007/04』のかけ離れ感にかなり目が点な状態になった。

◆左表紙

月刊『現代思想 2007/04』
特集「教育の未来 国家・格差・現場」

青土社 (2007/03)


 『「教育」を問う教育学』は、「教育を問うている」本なわけで教育思想史など理論が中心、仕方ないと言われればそれまでだけれども、それにしてもみごとに”教育現場”感が無い宙に浮いたような論考が大半。かたや、『現代思想 2007/04』のほうは、現場の危機感焦燥感がこれでもかと。
 …読み合わせが悪かったのかな。
 誰かこの2冊を読み合わせて、同じようなめまいを感じるかどうか試してもらえないかな。(前者が教育方針を定めて後者が悲鳴を上げている、そんな図が脳裏に大の字になってしまったので orz)
 閑話休題。

※ コメントへの返信は、間2日以上空くのがふつうである、というまったり展開のお約束です。
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* * *

→ 上掲のお話についてのコメント

2311 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/04/25】

>おもしろいのは遺伝子を「外因」と考え、
>自分自身を内側から作っているものと考えないという点です。
>脳機能といわれれば自分の一部と思える。だから取り替えはきかない。
>しかし遺伝子といわれると自分の一部ではなく、
>「外」から自分を動かすモノと響いてしまう。だから取り替えがきく。
>これはどこかおかしいと思っています。

大きな違いは、「自分の意志で変えられるか否か」なんでしょうね。

 遺伝子   :   脳
 静的       動的
 不変       可変
 パーツ      製品
着脱(挿入)可能  着脱不能
 HTMLタグ    ウェブサイト
相続する記号  生成し育成する作品
 非個性      個人
ほかにもある    唯一
 レッテル   アイデンティティ
縁のない他人と
強制的に
いっしょくたに
くくられる記号

>・うれしい人と、嫌悪感を感じる人の違いは何か

  脳のおかげだ=自分が意志を持って脳を鍛えたゆえに
遺伝子のおかげだ=自分の意志の功績・名誉が軽んじられる
   親の血筋だ=これは意外と努力部分を否定されないかも
  親の七光りだ=自分の努力が否定されるっぽい
体育館のおかげだ
チームのおかげだ…
 自分で、自意志の参加でソレを変えられるか否か。
 その可変幅の大きさ感、努力を認めてもらえるか否かが、人生の満足度に大きく関わることもあり、遺伝子言説に「自由度を奪われる」「自尊心を損なわれる」感も抱くのでしょう。
 ついでに、
 恩師のおかげだ=実際に先生/親が役立っていたのであればいいけれど、なんもしてくれなかったのに「こいつの優勝はすべて教師/親の功績だ」とやられるとぶん殴りたくなる。

>・これを利(悪)用する人はどう利(悪)用しようと考えるか

 利用のしかたの善悪じゃなく、利用の結果がどう善悪として立ち現れてきうるのか、かな。
 おりよく(折悪しく?)全国学力テストでもめていますよね。
 それぞれに悪用のつもりはなくとも、結果的に立場によって悪として立ち現れたり。
 まずはどんな応用方法がありえて、どんな拒絶・拒否反応が予想できるのか。
 全国学力テストと似た論点に収束するのか、まったく違う性質のものになるのか。
 全国学力テストの論点に詳しい人がいればいいんだけど。

・知能が伸びる遺伝子/伸びない遺伝子で別教育にするべきか否か
・反社会性が高い遺伝子の子は、特殊学級に分けるべきか否か
・反社会性が高い遺伝子の子は、クラスメートにそれと知らせるべきか否か
・論理的思考の強い遺伝子の子は、最初から理系教育を施すべきか否か
・伸びない遺伝子の子に、おまえは伸びないからと伝える是非は etc...

>・嫌悪感・絶望感を感じる人の遺伝観はどのようなものか

 どんなシチュエーションでどんな嫌悪感がありうるのか、どの層が嫌悪感強めなのか、学歴、年齢、収入などで分けて見てみたいですね。
 「コッソリアンケート http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-742.html 」は便利だけれど、年齢層が限られてくるので… でも若い層を対象に「来るべき世代」の内実を見るには、便利な場所かもしれない。

2357 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/04/27】

「遺伝教育学」はどう展開するのか 
もともと自分で掲げた看板だけど、こうして人から引用され、ホントにblogの看板に据えられると恥ずかしいな。まだ中身ないから。これをむなしい空理空論に堕さないようにできるだろうか。このタイトルにはあんまりこだわらずに、「連歌」を続けます。

 遺伝子   :   脳
 静的       動的
 不変       可変
 パーツ      製品
着脱(挿入)可能  着脱不能
 HTMLタグ    ウェブサイト
相続する記号  生成し育成する作品
 非個性      個人
ほかにもある    唯一
 レッテル   アイデンティティ
縁のない他人と
強制的に
いっしょくたに
くくられる記号

この「遺伝子」側の属性はみんな当たってませんよね。一人分の遺伝子全体(ゲノム)の機能は動的であり、これを取り替えたらおそらくその前のその人ではなくなってしまう。遺伝子を一つ一つつぶつぶみたいに、あるいは病原体みたいに、切り離して扱ってはいけない。



1646 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/04/28】

 一般的には、観念上、遺伝子はバラ売り状態が多いようですね。あまりセット扱いされてない。「故障するパーツ」呼ばわりされていたりもするし。(遺伝病・遺伝子病での表現の影響でしょうか)
 「一人分の遺伝子全体(ゲノム)」も、アイデンティティ(自我)には直結していない。自分もしくは家系を表す「記号(ID?)」扱い。もしくは「種(たね)」? 体外に取り出せるからかな。取り出して、キーホルダーにして自分のDNAを販売なさった韓国スターもいたし。同じ遺伝子であっても一卵性双生児のように異なる自我が発生するわけだし…。
 自己愛に盲執する場合でも、自分の遺伝子(を継いだ子孫作り)に執着する以上に、遺伝子は二の次に「ほかの体(DNA)でもいいから」と自分の自意識を残したがる。
 日本版「DNA伝説」があると便利なんでしょうけれど。遺伝科学が登場する以前の文化慣習が色濃いまま、みなは暮らしている。(自分が見た印象です、実際は調べてみないと)
 また、遺伝情報は「人間の可能性を限りにくる」ものだともみなされる。おまえはなりたいものになれない、おまえはこうなるはず。
 科学的正誤以前に、遺伝子をこのように見做しているような場で、遺伝教育学はどんな様式を採るのだろう。

 安藤さんとしては、遺伝子 vs 脳 の場合、それぞれにどのような属性を見て取るのでしょう。
 先に引いた安藤さんの文章に「生命活動をつかさどる源である遺伝子」という属性表現がありましたが、一般・巷の「生命」観では、命をつかさどるものとしては遺伝子は影が薄いかもしれない。(「命」という観念は、けっこう物質科学とはそりが合わないっぽい)

 生命活動をつかさどる源を参考にしてより良い生を目指す、という高邁な流れにはならず、「遺伝子を用いた簡単便利に科学的な人間のクラス分け」に終始してしまう可能性は。
 そういう良からぬ方向が発生しうることを考えると、教育においては遺伝情報を考慮せずに従来どおりの方法をとった方がプラスが大きい、と結論されてしまうのか。
 とはいえ、科学が世間にもたらす展開は「案ずるより生むが安し」で結果オーライな場合もあります。下調べから提示方法をうまく練り上げていくと、マイナス面は小さく済ませられるだろうか。

1200 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/04/29】

ふたご研究者=行動遺伝学者からみた遺伝観とのズレが次の二つに現れているのを感じました。

●「一人分の遺伝子全体(ゲノム)」も、アイデンティティ(自我)には直結していない。

●同じ遺伝子であっても一卵性双生児のように異なる自我が発生するわけだし…。

一卵性の二人を入れ替えても、他人の目からは初めすぐにはそれと分からないくらい似ています。昔「タケシの万物創世記」で3泊4日別々にキャンプして過ごした11組の一卵性を最後に5組入れ替えた。1時間たっても誰も気がつかなかった。ひと組の女性なんか、髪の色までちがうのに。いまも3才の一卵性の脳機能の調査をしていますが、顔立ちだけでなく、もつ雰囲気、発揮する能力の類似性はいつみても驚かされます。これがgenomehoodを実感する瞬間です。これはゲノムレベルでの人格の個体性への影響であり、ふたご研究者として世に伝えたいいっぽうのメッセージです。よく一卵性なのに二人は全然ちがう、という印象ももちますが、これは二人をよく知るようになってから比較したときに現れてくるもので、圧倒的な「地」の類似性の上に現れた「図」だからちがって見えるのは当然です(いまちょうどNIRSのアシスタントが2時間近くたって「だんだん違いが分かってきました」と発言している)。二卵性と比べ、ましてや赤の他人と比べたとき、その類似性はやはり否定できません。二卵性や赤の他人との違いと、一卵性の違いは実存的に同等という議論ももちろん成り立ちますし、それはそれで重要な認識です。しかしその類似性が示唆するgenomehood=ゲノム全体が示す個体性の姿は、次の第二のメッセージと同等に大きい。遺伝子の組成が変われば、異なる人格になります。

そして第二のメッセージは、第一と正反対の「一卵性は同じではない」という側面です。ここには環境の一時的、恒常的違いに対する適応の結果と言うこともあるし、エビジェネティックなものもあるし、実存的な認識のレベルの違いということもあり、いずれにせよ人間の生命活動における遺伝子の表現の幅やダイナミズムを考えるときの重要なメッセージです。

大事なのは第一のメッセージと第二のメッセージのどちらも同じように重要ということ。しかし人はいっぺんに二つのことは考えられず、イデオロギーはいずれかを強調して論陣を張りたがる。なので私は「逆コウモリ」として、一方を強調したがる陣営には別の面を示して見せたくなる。

ヒトラーのクローンを創ってもヒトラーと同じにはならない。とはいえ何らかの「ヒトラー性」は維持され、それは「ガンジー性」でも「ブッシュ性」でもない。それが結果的に出来の悪い自尊心肥大のエセ芸術家となるか、「完璧なヒトラー」としてヒトラー自身すらなしえなかった「理想」の帝国を築き上げるかは分からないが(もちろんこの「ヒトラー性」という概念にはすでに文化的「色」が着いている。遺伝子について語るときは、本当は前文化的概念でなければならないのだが、文化の制約を受けた私たちのコトバはそれを表現することができないので、便宜的に、あるいは戦略的にこの言葉を使いますが)。

以上、すべてあったり前のことなんだけれど、世の遺伝子言説を見てて感じるのは、どちらか一方しか見ない議論が多い、これを統合した言説がないということです。私も実はまだできていない。これを身のある形でできるようにするための「ネタ」を双生児研究から発信したいのです。

次は
●安藤さんとしては、遺伝子 vs 脳 の場合、それぞれにどのような属性を見て取るのでしょう。

について考えてみたいと思います。

0730 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/04/30】

遺伝子 vs 脳の属性の話の前に、ゲノムの全体性を伝える比喩を思いついたので。

遺伝子が取り替えのきくパーツのモデルで理解するとまずいのは、多くの遺伝子がおそらくpleiotropic(多面発現的)つまりいろいろな形質に関与しているから、そしてplygenicity(多遺伝子的)つまり一つの形質が多くの遺伝子の影響を受けているからです。

これは長い文章(たとえば何巻もある長編小説をイメージして)の中の「の」の助詞を全部「へ」に入れ替えるようなもので、おそらく意味が全く異なってくるでしょう。ここまで極端でなくとも、その小説に出てくる「いつも」という単語をすべて「ときどき」に入れ替えてもいいです(こちらの方が近いイメージかも)。全体のニュアンスはかなりちがってくるでしょう。

この比喩って、日本語の文法体系だから使えるのかな。博覧強記の雨崎さん、どなたか他にこの比喩を使っている人っていますか。

0053 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/05/02】

●似ている/ひとまちがいの気まずさ

 「どのくらい似ているか」に関わらず、ふだん生活する上では、似ている人を混同してはいけない、「どんなに似ていても人様を混同するべきではない。相手さまを別人と混同するのはたいへん失礼なことだ。」日常生活上、こういう感覚はかなり強いのではないでしょうか。
 メディア上でも、一卵性双生児を「似ているように演じている二人」「実はここが違う一卵性双生児」「たまにシンクロするのが面白い」と表現しがち。同じ人間が二人存在すると不安になり、「違う」なら安心する、そんな心理が働いている気配。(あいばらみや畜生腹を忌むのもこの系統?)
 加えて、日常生活上での「同じ」「違う」のバランスのとりづらさは、血液型性格診断の蔓延などに如実に現れている。
 論理的に遺伝子の知識を伝え、数値やデータを提示できたとしても、「同じであり、違いもし」のような玉虫色さが濃い話は、なかなか伝える側の意図どおりには受け取ってもらいづらいのかもしれません。

●ゲノムの全体性を伝える比喩

 前世紀末かな、ゲノムの話をするときにホログラムに喩えてみていたんですけどね、干渉波が描き出す立体図像。でも、結局ホログラム自体が人様にはわかりづらかったみたいで。

 …自分は博覧強記だとは思っていません。知らないことが多すぎる。orz
 長編小説の語句入れ替えを比喩に用いている事例は寡聞にして存じません。

もしかしたら、自殺行動の遺伝要因であれば疫学的需要もあってアピールしやすい、自殺行動の遺伝要因についての認識が普及すれば、行動遺伝全般についての理解度についても風向きが変わってくるかもしれない、などと想像してみる今日このごろ。


2348 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/05/04】

●それでもそれは美しい「玉虫色」なのだ!
一卵性は同じであり同時にちがう。生命は遺伝と環境の両方から成る。いずれか一方だけに立って論を立てないこと。生命を理解するときに簡単なわかりやすい答えがあると思うこと自体が誤りであること。このことをつたえつづけねばならないだなぁ、と再認識。

●脳と遺伝子をどうとらえるかについて
まずとらえる時間単位がちがう。脳はミリセカンドの単位で状態が常に変化しているが、遺伝子の発現の速度はもっと遅く、あるレベルでは一生変わらない。


0838 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/05/05】

趣味それぞれですが、自分は「美しい」「使命」などの恣意的な美化を伴うような修辞はあまり好みません。うさんくさくなる。
それと、人間が人生を送る上で有益な情報は正しい情報だとは限りません。
天井(舞台の理想)を仰ぎ見るだけではなく、草の根、現場との切り結び(自分の言い分を通すのではなく、小学校の先生、若い親御さん、そこらの衆生の語りにまず耳を傾ける)が必要ではないでしょうか。方策を練るのはそれからだ。
と、結局最初の時点に舞い戻ってしまうのだった。

1044 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/05/05】

ううむ、確かにめぐりめぐってお互いそれぞれの出発点に戻ったのかもしれませんぬ。それでも螺旋状にフェイズが上がったのだろうか。結局「趣味」や「うさんくささ」というレベルで反応されてしまうのだなぁ。そんなに浮いてます?ちょっとは同調しようかな、みたいに気になってもらえませんか?玉虫には純色にない美しさがありまっせ。だから厨子にもなったのだし。

感覚のレベルといえば、「美しさ」「使命」、それに「正義」「善さ」「魂の高揚」「聖なるもの」…こうした確かに"うさん臭さ"、"青臭さ"プンプンの臭気漂うドぐさーい概念を、修辞的に偽善・欺瞞へ落ち込む危険を承知しつつも、やはり私は人間としての研究者のパッションとして大事なものと思っているのだと思います。趣味の問題かもしれないが、趣味を超えた問題かもしれない。

…というようなことを、まあ、公の場でいうことがうさんくさいということで、話を聞いてもらえなくなることは分かりました。みんなが口をそろえて言い出したら、そりゃ、おぞましい。でもだれも「玉虫色」を目指すべき目標という意味では使おうとしないし、ここでの文脈で中庸の(?)立場を貫くことの重要性を認識して適確にそれをうまく言語化できている人にはなかなかお目にかからない。なので、やはりこだわる(リドレーやマーカスはその辺がまあ上手かな。基本はダーウィンかもしれないしプラトンかもしれない。


人間が人生を送る上で有益な情報が正しい情報だとは限りませんが、誤っている情報の上で有益と錯覚しているのであれば、これは欺瞞でしょう?それでも本人が幸せならいいじゃないか、そうですね、そっとしておきましょう、…で片付く問題ではないだろう。遺伝要因の存在を閉め出して構築した社会言説は、見た目有益な幻想を与えてくれるがおそらく確実に「誤っている」と思っているので、より正しい姿、よりバランスのとれた姿を求めて象牙の塔の中にこもって天(「井」はいらないな)をがんばって仰ぎ見ます。そのときは衆生の言葉を探そうとするのではなくて、一人孤独に天と対峙する(これも我ながらクサすぎる表現だけど…私の願望です)。でも私も象牙の塔から一歩出れば衆生の一人だし、衆生どうしの語りは大事にしたいし、そのセンサーを鈍らせたくはない。雨崎さんも衆生のお一人です。しかし衆生を代表しているわけではないだろう。そもそも衆生の本質はその多様性にあり、平均値、最頻値だけが大事なわけではない。相手は先生や親ばかりではないとなると、これにプロとして本格的に耳を傾けるためには、想像するだけでもかなりの労力がかかる。なので、少なくとも今はそのための労力は割けない。

●脳と遺伝子をどうとらえるかについて(2)
取り替えがきくかきかないか。これは同じ。技術的には近未来的にどちらも取り替えがきくようになるだろう。取り替えれば、もとある(あったであろう)「私」でなくなるという意味でも同じ。だから倫理的な問題になる。遺伝子は「私」の外にあるものではない。一つ一つを見れば「私」の一部だし、ゲノムレベルで見れば、脳以上に「私」そのもの。一卵性はそういう「私」が多様な様態を示すことができることを示している。

遺伝子や脳が医学の文脈で多く語られ、その中で大きなお金が動いていることの危険性がここにあると思う。治療の対象として外在化し道具化し操作することが正当化される。しかし遺伝子も脳も、物質やエネルギーや情報とは異なる新たなカテゴリーとして認識しなければならないはず。これが指輪たるゆえんであり、ガンダルフの知恵に耳を貸さねばならないゆえんです。これは衆生の一人としての安藤が感じていることで、井戸端会議で「そんな気がするんだけど、どうかなあ」とほのめかしている段階です。

2336 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/05/05】

 だから、真実とか正しい道とかそういう以前に、同じテーマを上演するにしても、そんな一方的自己陶酔ルー大柴みたいなシナリオではウケないじゃないですか。
 (一般には「玉虫色」という表現は「政治の場で用いられる空虚な詭弁」を想起させるので、あまりオススメできません。「虹色」のほうがまだイメージはいい)
 研究の成果が世間においてどう立ち現れるのかを見たいなら。現実は、はんぱな自己陶酔や理想像などかけらも歯が立たないような、浅薄な脳ブームや遺伝子信仰の魑魅魍魎が跋扈するギタギタのドロドロです。そこにおいてどう遺伝教育学が立ち現れるのかを心したいなら。
 うさんくさいと言ってしまったついでに、ありていに述べるならば、基本的に安藤さんのスタンスはエリート臭い。自分の階層以外のエートスを軽視してはばからない、二の次でかまわない、そこを貫いてきてしまっているからこそ、行動遺伝学の成果をものし、松原洋子さんらの懸念を一蹴し、遺伝教育学をも構想してしまえるゆえんなのだろうけれど。
 研究者の理想は、研究を進められればいい、瑣末事に煩わされることなく成果をものにすることができるなら御の字。真理の追究は、それでいいんです、理想は高くていい。
 でも、遺伝教育学が世間においてどう立ち現れるのか、顕現させうるのか、そこを構想したいなら、研究第一で考慮の外に置いてきていた世間のことを思い出して、まず彼らと切り結ばなければなんも始まらない。

 あ、いや、ええと、そうじゃないのか。

 安藤さんは、遺伝教育学の看板を仮上げしてたくさん「正しい行動遺伝学の知見」を放出するぞ、自分は忙しいから、世間の悶着は遺伝教育学の看板のもとで「ほかの人が考えてくれ」と言っているのかな。
 だとしたら、んー。
 じゃあ、世間の有象無象がどんなであるかにかかずらうことなく、対象を絞って、有力な教育関係者やコネが多い心理学者たちが、遺伝教育学の行く手に巻き込まれるよう工作していくことを優先したほうがいいのかな。それなら
  ・心理学の各分野では/遺伝学では/教育学では/倫理学では…
    性格や知能の遺伝に関する知識はどの程度のものなのか
    性格や知能の遺伝に関する見解は肯定的か否定的か
と、パーソナリティ心理学者対象に行ったような軽いアンケート調査程度で足りて、あとその調査を手がかりに「有力な教育関係者やコネが多い心理学者たち」にどうアプローチしてみるかを考える。でじゅうぶんなのかな?
 演劇の企画もシナリオもマーケット調査もその道の人に任せて、データ出しに専念する。

 …でも安藤さん的には裏方ではなく表に顔を出したいんですよね?
 私は、大衆演劇小屋に出演するなら客のことを知ってくれよと期待するし、安藤さんは舞台には出たがるが客より演目のほうを重視するオペラの大スターのようなスタンス?
 すると、…妥協案は、出演先は上流階層向けのオペラだけにする/語りかける対象は学者や政策者レベルだけにする?
 問題点も相手の性質も見えないままむやみに語るよりは、近隣の同族相手に上演するほうがすんなり行く?


0238 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/05/06】

●雨崎さんの思っている安藤と私が自分で思う安藤のギャップの大きさに当惑しています。そもそもこの先どう話を展開するのがいいのだろう。

私は雨崎さんが期待するような役を演ずることのできるような一流の役者じゃないよ、はいごめんなさい、と尻をまくって逃げる?もし雨崎さんがこのまま舞台上のヘタな役者を批判する評論家を演ずるつもりなら、その方がいいかもしれない。とにかくこのまま行動遺伝学論・遺伝教育学論・安藤寿康論(?)をこのようなモードで抽象的に語り合っても互いにとても不毛だ。

あるいは雨崎さんの忠告を素直に認め、心を入れ替えての本物の役者になるための新たな修行の道への一歩を踏み出す?そしていつの日か、一部の自称エリートの同業者集団の中だけしか通用しない自己陶酔の自主上演ではなく、本当に大衆から支持され愛される役者として大成する。それが雨崎さんの期待するシナリオかもしれない。わたしが自分で思い描いているストーリーとはだいぶちがうが。少なくとも現段階では。

自分でもいますぐどうすべきかよく分かりませんが、雨崎さんのご忠告・ご指摘はしかと受け止めました。これは社交辞令ではありません。ただそれがどのように今後の研究活動のなかで形になるのか、ならないのかは、わかりません。もしお暇でしたら、長い目で見守ってください。

ちなみに「一方的自己陶酔ルー大柴」の意味、最近のルー大柴が何をしているのか知らないのでよく分からないのですが、少なくとも昔のルー大柴は好きでした。私がそういって彼の出ている番組をみようとすると、うちの家内は露骨にいやな顔をしてチャンネルを変えられてしまいましたが。もし昔と変わらないキャラに対して、あれを「一方的自己陶酔」と呼んでいるとしたら、それは表面的な理解だと思います。少なくとも私が好きだったルー大柴には、あの一見嫌悪感を与えるバタクサさの隙間に、愛すべき何か、受け止めたい何かが感じられたのですが。

●脳と遺伝子をどうとらえるかについて(3)
話を展開しい欲しい話題はむしろこっちの方でした。

ゲノムをホログラムの比喩で理解するというのは考えてみたことがありませんでしたが、脳をホログラムにたとえるというのは、そのころよくありましたよね。

ちょっと似ているかもしれませんが、私はゲノムをフラクタル的なものと考えています。どの細部にも、どのような上位次元にも、同型なものがあらわれる。よく遺伝子の影響は、RNAに転写されアミノ酸からタンパク質が作られる最初のときのような、DNAに近いところでは強いが、組織の形成くらいになると環境の影響が入り込み、行動くらいになるとますますその影響は弱まり、社会などのDNAから遠く離れたレベルになるともはや遺伝子の直接影響はなくなるというようなイメージを持たれやすいと思うのですが、そうではなくあらゆるレベルで同程度に関わっている。ある意味ではコントロールされている。おそらく生態系の全体のバランスに関する情報も、何らかの形で遺伝子の中には刻まれているだろう。しかし同時にあらゆるレベルで同程度に非遺伝的影響を受けている。つまりそのときの状況に対して対応できる。これはDNAからRNAに転写される段階ですでにあり、エビジェネティックまで考えればDNAレベルでもある。

それに対して脳がコントロールしているのは個人と、それを取り巻く限られた環境レベルの情報に対してだけだろう。状況に適応的であることは遺伝子と同じだが、遺伝子はそれ自身はその場限りののろい適応に過ぎず、その状況情報を記録はしない。一方脳は個体のさらされた状況に時々刻々状態を変えて適応し、履歴を刻みこむ。

ただいずれにしても、われわれの知るいかなる巧みな比喩でも理解しきれない、なんとも不可思議な働きをどちらもしでかしてくれますよね。その意味で取り替えのきく物理的部品や、力を発揮するエルネギーや、単なる情報処理系で理解しきれない第4のカテゴリーとして、生命を理解しそれと向き合って生きるための何か新しい枠組みが必要なのだと思う。きっと自然科学が生まれる前にはそれがあったのだろうな、などとも思うわけです。なぜなら人間の文化もまた遺伝子のフラクタル的産物だから。

0131 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/05/09】

お待たせしました。(ずれたレスポンスであればご寛恕を、少々立て込んでおりました)

 自分が警備会社の人間であれば、現場の状況や現場を去来する人間の性質を把握せずに警備理念を述べ立てる人間は、指導教育資格を持っているとしても、警備計画の策定にはたずさわらせません。できれば、現場にも営業にも出ずに事務所の仕事だけやっていてくれると安心できる。かといって、人材がいなければ、人材不足のまま低いレベルの最善策をとってお茶をにごすか、それとも万全の体制がとれるまで業務を停止するか。
 それはそれとして、必要な面に対する感度が低い者がそこに立つと、本人には悪気は露ほどもなくても悪者・悪役の姿になってしまう、そんな職場/ポジションも世の中にはあるわけで、組み合わせの妙というか、なかなか一筋縄にはいかないもんです。

 不足部分を補ってくれるような良い補助者や後継者がどんどん出てきてくれればいいんですけどね。

 私のほうは「これからの比喩」の前に、今現在どんな比喩がのさばっているのかをまず踏まえたい。それらの比喩・暗喩の繁茂状態を見た上で、どの方向に修正していくべきかを考えたい。日本版DNA伝説/脳伝説をものしている研究者さんかサイトか、あればいいんですけどね。

※外野へ:「DNA伝説」とは、科学的な部分はさておき、世の中では遺伝子やDNAにどんなイメージがまとわりつき、どのような表現の際に使われ、何の象徴にされているのか、などをまとめた故・ドロシー・ネルキン&M.スーザン・リンディーの著書タイトル。
http://www.amazon.co.jp/dp/4314007877?tag=hbjp-22



0906 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/05/11】

たしか雑誌・新聞などに登場する「遺伝子」タームを収集している人(社会学系じゃなくて生物学系のヒトが趣味で、だったような)がいるという話を佐倉さんか松原さんからきいた記憶があり、そのとき名前もメモった記憶もあるのに忘れちゃった。雨崎さん、ご存じなんじゃありません?今度佐倉さんにあったとき聞いてみます。

そういう仕事が大事であることは十分認識しています。魑魅魍魎が跋扈する世界であることも、遺伝言説がどのように使われるかも予想はつきます。ここで丁寧な調査がなされれば、より現実的なシミュレーションもできるかもしれない。ただ、それがネルキン・リンディーじゃ困るわけです。彼ら自身は遺伝子言説は見ようとするが遺伝子を見ようとはいていないから。そういう中途半端な言説を相対化する立場こそが、ゆがんだ言説を生んでいるのだということを認識しながら、あれ以上の仕事ができる人が必要なのだと思います。で、将来出てくるであろうそういう人たちに使ってもらえるような研究成果とそれに基づく「新しい遺伝言説」を地道に出すことが当面、私のする仕事だと思っています。

連休中に「現代思想」をアマゾンで取り寄せました。わが「教育学者」の世界とのギャップに、私もクラクラしました。これについてはいろいろ考えたいことがあるのですけれど、今から最低ひと月ほどいろいろ立て込みそうで(今もすでにかなり立て込んでおり、いわば慢性的に立て込んではいるのですが…)。しばらくレスが間遠になるかもしれませんがお許しを。

1236 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/05/14】

>「遺伝子」タームを収集

 やってくれている人がいそうな気配は嬉しいですね。
 そういう「書記」っぽい仕事は大好きなんですが、自分はふだん雑誌・新聞には接していないので…、やるとしたらテレビとウェブになるけれど、どっちにしろ個人有志の作業ではえらい手間になりますね。

 「現代思想」の教育特集はすごかったでしょう(たしか毎年「現代思想」の4月号は教育が主題です)。同じ「教育」を掲げても、ここまで見えるものが違っているのかと。両者の間で、どう、どんな対話が成立しうるのか、ちょっと見当がつきませんでした。

 とりあえず、この場では「しっかり展開」をもたらしてくれそうな誰か第三者、第四者が現れるまで、話はお預けにしてもいいかもしれませんね。どっちにしろ、すぐにはどうこうできる問題ではないし。
 積極的に関わってくれそうな人がどこかにいないか、おりおり目配りしておくことにいたしましょう。

1637 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/05/14】

 とりいそぎ追伸。さっき見つけました。
 日本のDNA伝説収集者は京都大学名誉教授・近畿大原子力研・武部啓氏だそうです。(〜玉井真理子「遺伝医療とこころのケア」)

2350 #- コメントアンカー 安藤寿康 さんのコメント 【2007/05/20】

お久しぶりです。連休が明けたら、もう慢性的お取り込み中で、あちこちから「あなた、この仕事やり忘れてますよ」の督促の嵐で、こんな社会的無責任男が「倫理」だの「正義」だのエラソーにのたまえる資格などないのですけれど…。

佐倉さんから聞きました。私が聞いたのは工学院大学の林真理氏。科研費の特定領域研究ゲノム領域でゲノム研究と社会の接点を担当しての「ゲノムってどんなイメージ」研究をしていらっしゃった。
http://www2.convention.co.jp/hirobag/2006/tokyo/pdf/t_B07-C08.pdf
どんな成果を出しているのかは分からないのですが。

こういうのって、ともすればネルソン・リンディみたいに、公正な言説分析を装って、結局の所、その人の枠組みでかなり好きなように「構築」されていくのがオチのような気がするのですけど(偏見?)、この林さんは山梨大の山縣さんなんかとやっているところを見ると、通俗的ゲノム言説に少しはメタで創造的な切り込みをしてくれてる…かなぁ。

もし自分でやるとしたら、世間でこういわれている、こんなにたくさんの人がこう思っている、ということを明らかにするだけでなく、独特な見方、意外な言説、縛り付けるような言い方じゃなくて動くような、飛び跳ねるような、そんなゲノム観をとらえてる言説を、特に探そうとすると思います。そしてできれば、指輪物語やフラクタルや心理学的柔構造じゃないですが、やはり双生児研究が示す遺伝観をうまく描けるような適確な比喩やアナロジーを考案していきたいですね。

ちょっとちがいますが、こんど6/18に、日本子ども学会の内輪の研究会で、ダーウィンが子どもの科学的理解に何をもたらしたのか、そして教育の中の遺伝・環境のとらえ方について議論しようということになりました。これが今年の9月に不祥私が推進委員長をすることになっているこの学会の大会の基調テーマにもなります。北海道からいらっしゃる、というわけにはいかないでしょうか、ね。

0945 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎良未 さんのコメント 【2007/05/21】

 林さんは、科学史MLにいらしていたかな。
林真理(はやしまこと)著『操作される生命 科学的言説の政治学』NTT出版 2002/09
http://www.amazon.co.jp/dp/4757160089?tag=hbjp-22
>私たちの社会では、実現可能なテクノロジーについて
>そのメリットや問題点が論じられ、その使われ方などに関する
>さまざまな選択がなされる。しかし、そこではすでに
>選ばれたものの中で選択が行われているに過ぎないのである。
> またそれに加えて注意したいのは、存在しているテクノロジーには、
>それが選択肢として与えられた時にはすでに何らかの解釈が
>なされていることである。〜p.9

 自分が危惧するのは、どんなアナロジーも受け手によって勝手に変形させられる、その変形が、発信者の思いとはかけ離れた形の結果を出してしまう可能性、ですね。こう発信したら、現場ではこのように変形してしまう、そういう気配をあらかじめなるたけ読んだ上で、変形を見越して匙加減をしたアナロジーを編むことを目指したい。そのアナロジーの作成作業でさえ、編み手の立場・視野によってさまざまに偏りや不足を見せるのだろうけれど、少なくとも、現場感覚や現場の声を見ておくことは欠かして欲しくない。
 正しい発信なのに誤解や誤読をするほうが悪い、ではなく、正しい内容を誤解や誤読されるように発信してしまうほうが悪い、つまり受け手の性質に無頓着だったらあかん(マスメディアでは基本)、と踏まえたい。現場(受け手)とフィードバックしていかないと。
 「〜〜のせいだ」云々は時代や立場でコロコロ変わるし。
 ネルソン・リンディ『DNA伝説』は、もう読んだのはずいぶん昔の話なのでどう結論誘導していたのかろくに覚えてはいませんが、誰がいいか悪いか以前に、庶民の言説から縁遠くなっている側に対して「現状を見ておいてくれ」と示すものとして受け取った。
 ネルソン・リンディ以外の人々があのような仕事にもっと携わって目立ってくれていればいいんだけれど、いまのところ庶民の言説をあげつらったものとして挙げやすいアイコンになっているからつい『DNA伝説』として引き合いに出す。ネルソン・リンディは、この手の「科学←→社会」話をする上で使い勝手のいいアイコンを著してくれたのだと受け取っています。

 6月は9月の子ども学会の前哨戦なんですね。
 進化心理学関係の人もなんぼか顔を出されるのでしょうか。
 自分はちょっと上京は無理そうです。

1305 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎 さんのコメント 【2007/12/12】

その後、安藤寿康氏は「進化教育学」という看板をお選びになりなさったらしい。
 → http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071211
2007-12-11 HBES-J 2007 参加日誌 〜shorebird

「環境教育学」とタッグを組んで行ければいいね。
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-871.html

0132 #- コメントアンカー 安藤 さんのコメント 【2008/04/02】

大変ご無沙汰です。ほんとにアンテナが広いというか鋭いというか、チェックされていたとは。

そうなんです。昨年も後半になって、遺伝教育学だけでは不十分で、進化的視点の中で理論化すべきなのだったとようやっと気づきました。これもまず看板ありきで、お店に並ぶのは霊長類や鳥やミーアキャットの話、ご紹介の小林朋道氏も指摘するような認知的制約の話(この本知りませんでした、ありがとうございます)、生活史戦略などの話に、最近平石界氏が双生児研究で示した内的環境適応仮説を取り入れるという寄せ集め的なものです。ここからオリジナル商品の生産ラインが作れるようになればいいのですが。

これって小林朋道

0154 #- コメントアンカー 安藤 さんのコメント 【2008/04/02】

最後の一文「これって小林朋道」は推敲途中で消し忘れたゴミです。が、ついでだから追加します。

雨埼さんの紹介だけからしか判断できませんが、これ(進化教育学の構想)って小林朋道氏のように教育実践への示唆を与えることを目指すのではなく、教育とは何かについての新しい見方を提示するための学問のつもりです。

教育(教えて育てる、教わって学んで育つ関係の成立)は基本的にヒトにしかみられない社会的学習関係で、ヒト特有の適応戦略の一つとして獲得した互恵的利他行動システムのあり方として理解でき、その起源や機能についてのさまざまなリサーチクエスチョンを進化心理学と行動遺伝学の枠組みからたてることができるように思われます。それが教育の見方を変えれば、教育実践のあり方がどのような場面ではどのような形式がどのような個体にとってより適応的かを問うことができ、副産物として教育実践の改革にもつながるのではないかと思います。いろんな人たちがいまこれに類することを言い始めているので、そう珍しい話ではないですが、ある程度体系化可能なのではないかと思われますので、看板掲げてみました。

以上、予告編でした。

2250 #MJWiGxv6 コメントアンカー 雨崎 さんのコメント 【2008/04/03】

お久しぶりです。
今日、こんなページの情報が流れてきまして、

> 有斐閣書籍編集第2部: 『精神疾患の行動遺伝学』
http://yuhikaku-nibu.txt-nifty.com/blog/2008/04/post_3716.html
>訳者:安藤寿康先生が,『書斎の窓』(2007年12月号)に寄稿した紹介文をお読みいただけます。
> 「遺伝子について考えるために ――『精神疾患の行動遺伝学』を翻訳・刊行して」
> 安藤 寿康 

この本、読もうと思いつつ、市内図書館に蔵書していないので後回しにしたまんま、入手するのを忘れていました。
近いうちに拝読したいと思います。

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