
「異教的中世」
ルドー・J.R.ミリス編著 新評論 3500円 2002/03
(1991 / THE PAGAN MIDDLE AGES)
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たいへん楽しい一冊だった。
中世、ヨーロッパ文化を席巻し、謳歌しまくっていたと見える当時のキリスト教が、いかに見た目、土着の宗教とごっちゃごちゃであったかが、多方面からの切り口で鮮やかに描写されていく。
日本でも顕著に観察された、「土着の文化に変換され、土着の慣習に織り込まれて変容した姿」のキリスト教、それと同様の、いや、それ以上の? 変換、変容、「異教の慣習に迎合していた」キリスト教のありようが、中世のヨーロッパ社会においてはごろごろふんだんに観察されたと。
ああ、そういうズレは、げにたいへん面白い。
異大陸、異民族の異教に対しては、ものすごい暴虐非道の限りを屡々行っていたと伝えられるキリスト教布教であれど、中世ヨーロッパにおいては、キリスト教布教活動は土着の異宗教を弾圧排除するのではなく、まるでどこぞの仏教のごとくに、土着宗教に迎合し浸透し、じわじわと勢力を広げていった、そしてその過程で、土着の文化宗教とごっちゃな姿をした異形のキリスト教がさまざまに跳梁跋扈。

... 以下つづき...


ただし、その異形さは、見た目だけ、体裁だけ。
中身はきっちりキリスト教であったらしい。
日本では過去、「見た目は同じだが内実が全然異質」なものになってしまう仏教の変質が行われた経緯があるのだが、そのような「愕然とするような内実の変形」とは全く逆の、「愕然とするような見てくれの変形」が、彼の地では頻繁に行われていたわけだ。
キリスト教の根幹、「キリストという人物に対する神学的定義」などは、全キリスト教公会議によってかなり早い時点でしかと定めがつけられており、その根幹を保持しながら、土着の文化宗教に新しい宗教を差し込んでいく。古い器に、「キリスト教教義」という新しい中身をそそぎ入れた。
だもんで、見た目、欧州各地の中世キリスト教は土着宗教の皮をおかぶりになった仮装大会状態だ。
さらに、「説教」において重視されたのは、全キリスト教公会議が定めたキリストがどうの神がどうのより、まずは_道徳意識の刷り込み_なのだと。
理論理屈より、新しい義務や禁止事項を周知徹底していく。
例えば、義務項目として「告白」を唱道する。告白を義務化することによって、信者個々を「全人格的にコントロール」することが可能になる。
布教のコツは、キリスト教の教えを「論理的であると思わせる」こと。思わせる。実際に論理的であるかどうかはまた別の話。説教者は、聞き手に”罪の意識”を植え付け、新しい論理に従うよう、道を踏み外した際には罰を持って訓馴する。
土着の神を駆逐しきるよりは、キリスト教の影響力がじゅうぶん及ぶことが重んじられた。
駆逐は目指されはしたのだけれど、土着の神がなんとしてもキリスト教によっては駆逐されきらなかった例は多々あるわけで、民衆の生活上・心理上、キリスト教で至らない部分があれば、キリスト教で禁じられる慣習であっても、必要に応じてまじないなり占いなり迷信なり、バンシーやノーム、オーディンなどの古の神・古の怪異をまつろわせて生き生きと甦ってくる。
ほか、死後観、薬草と迷信、文化慣習…。
目次:
第1章 異教的中世 表現の矛盾か(ルドー・ミリス)
第2章 宣教師 異教信仰とキリスト教の最初の接触(マルティン・ドゥ・ルー)
第3章 考古学的裏付け(アラン・ディールキンス)
第4章 生と死の間 闇の王国(クリストーフ・レッブ)
第5章 中世の女性預言者/シビュラ/(アニック・ヴエーグマン)
第6章 薬草の知識(ヴェロニーク・シャロン)
第7章 純潔、セックス、罪(ルドー・ミリス)
終章 異教信仰の残滓 その役割(ルドー・ミリス)
異時代に置かれれば、おのれの世界観と価値観もかように変貌するであろう、その可能性を読みとる楽しさ。

これらの主題にからんで思い出すのが、こちらの書物。

「死者の救済史 供養と憑依の宗教学」 池上良正著 角川書店 2003/08
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新旧の聖書に登場する「預言者」たちは、「憑依された者」ではなく、神の預言者でなくてはならない。
ゆえに、異文化異教の「憑依された者」は「シャーマニズム」というくくりに乱暴に突っ込まれ、聖書の預言者とは別の次元の存在として扱われることになる。(「死者の救済史」 p192-193)
神聖なる預言者の語りが、邪教の単なる憑依現象と一緒くたにされることがないように、キリスト教以外の預言者はひっくるめて「シャーマニズム」という便利袋の中に突っ込んでおしまいにした。
※ 予言者と預言者は意味が異なる言葉です
予言者=未来を予言する者
預言者=何かの言葉を預かり伝える者
そういう、同じ機能を持つものであっても政治的な都合によって全く別個の機序のものだとみなして扱う、意味のずらしが、いつのまにかあたりまえに実証された区別であるかのようにとりなされ、預言者の研究とシャーマニズムの研究が全く縁の無いまま別個に行われてきてしまうという、浅いトリック詭弁が効いてしまうこの諸学問の、なんとも哀れな歴史も、いろいろとたいへん興が深い。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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