
「死者の救済史 供養と憑依の宗教学」
池上良正著
角川書店 2003/08
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●古の習俗を、比較宗教学的に読み解くとこうなるのか。

「祖先崇拝」や「シャーマニズム」は、霊的な対象との「個別取引」。
神霊さんがたとカケヒキ交渉をすることによって、生者の世界に利益をもたらそうとする。
それに対して、仏教・キリスト教・イスラームなどの「世界宗教」では、おおかた至上的存在が世界をお統べになられているのであって、個々霊と生者の間の個別取引や直接交渉は、推奨されない。
で、昔々の日本では「祖先崇拝」や「シャーマニズム」が見られたというのだけれども、「祖先崇拝」や「シャーマニズム」が日本の衆生の暮らしを大きく席巻したのは、実際には日本古来の土着の文化のたまものと言うよりは、「外来の宗教や思想によって育てられた結果」ではないかと。
すなわち、「仏教」の伝来が、日本の民の信仰様態を変化させ、祖先崇拝やシャーマニズムを焚き付けることになった気配。
伝播上、衆生のニーズを満たす形で「輪廻転生(死んでも安心)」「追善廻向(供養:たたり祓いますサービス)」などが強調されていった。
「祖先崇拝」は、「先祖は尊いのです」以前に、「縁のあった者が子孫含む生者にたたる」恐怖があって成り立つ。
死者が生きていたときの姿のままで安らかにしているというのは、現代的勘違いでしかない。
死者は、本来安らかに死んでいるものではない。
腐る。
びらん する。
動く。
疫病をもたらす。
生きていたときとはかけ離れた存在になる。
たいへんおっかない死者たちを「祖先崇拝」してさしあげるには、なによりまず「死者がたたる」恐怖を解消する手段、つまり「供養」や「調伏(ちょうぶく)などの特別な儀式(納得イベント)が必要になる。
本来、「供養」や「調伏」は仏教の仕事ではない。
そこを敢えて「供養」や「調伏」のスキルやノウハウをにぎっている、というスタンスをウリにして、衆生のニーズを満たしていったのが、いにしえの日本仏教であったわけで。
おかげさんで、本来は
・解脱(げだつ)して涅槃(ねはん)の域に到達すること
を指すはずの言葉「成仏(じょうぶつ)」が、
・たたる恐ろしい死者が安らかな死者に変換されたこと
をあらわす慣用句になってしまうほど。
... 以下つづき...

【太平洋戦争と「英霊奉斎」「英霊祭祀」】昔々に発生した「供養」や「調伏」などの人心操作システムは、現代に至るまで、政治の場において脈々と(いろいろアクロバットも繰り広げながら)受け継がれてきている。
p118
戦死者の祭祀と供養
いうまでもなく、こうした死者顕彰の汎用化が大規模に適用されたのが、近代国民国家の「戦死者」たちであった。「顕彰(けんしょう)」とはそれを誉め上げなければすまない、強固な社会集団の意志を背景にした行為である。顕彰を誇示し、あるいは誇示された顕彰を正当化する強い権威や権力が前提にあり、その権威や権力が高まることによって顕彰の信憑性も高まるという相乗的な関係がある。
戦死した人間(死者)を、すべからく国家によって一括管理してしまう靖国神社。
一神教圏とは違って、日本では「家族の一員のまま」であるはずの死者が、問答無用で国のものになってしまう。
死者という、人質。

戦時中、降霊行為が禁止されていたにもかかわらず、東北地方ではおおぜいが公然とイタコの元をおとのうて、靖国にさらわれたはずの戦死者の声に耳を傾けていたという。p119-120
死者をめぐる攻防。
死者という「実在しない観念」をめぐって繰り広げられる心理戦。
政治の強力なツールとして、民衆を自在に操る道具として在る宗教。
政教分離は、実質的に実現したことはあったろうか、この国で。

仏教が伝来した当時の大昔の政治家さんたちは、「供養」や「調伏」という力を誇示できる(本来とはかけ離れた様態の)仏教を、権力のツールとしてすこぶる重宝なさった。
p42
怨霊の発生
死者の崇りを恐れてこれを祀る、という行為に近いものが記録として出てくるのも、律令国家体制が完全に組み上がった奈良時代になってからである。
逆に言えば、仏教とは異なり、霊的な対象との「個別取引」を一切禁じている一神教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教…)では、死者の供養はウリにできない。
一神教においては、死後は「神の専売特許」として一括管理される。
死後は、神ならぬものはアンタッチャブル。供養など無意味。
一神教曰く、
「死者たちの死後の運命などは、生者がどうこうできるものではない。
死後は神様の管轄なのであって、生者は自分のことを考えてなさい。」
ゆえに、一神教圏では「死者が今願っていること」やら「死者の一喜一憂」やらを、生者が公衆に向かってあたりまえのように主張したりは、なさらないわけだし。
一神教においては、この世は神の国に行けるかどうかの試練を受ける仮住まいでしかない。
死後は神のもの。
忌中も穢れもございません。
家族は、神が巡り合わせて下さった一過性のグループにすぎません。
戦死も、神のためならば、どんなに理不尽でも早世(はやじに)であっても、正しい善行なのでございます。
(こことか、おりおり主題書籍の内容ではない勝手な私見を書き連ねております。 …私見と、書籍内容の弁別が判然としない書き方をしてしまいがちで申し訳ございません)
日本的な「供養」に注目した一神教圏の人間が、欧米に「水子供養」と「供養」がもたらす心的効用を紹介して話題になった本について

p15-16 を編集
「宗教と社会」学会が、一九九九年から二〇〇〇年にかけて大学生・専門学校生を対象に行なったアンケート調査
( 「宗教と社会」学会・宗教意識調査プロジェクト『第7回アンケート調査報告』二〇〇一年)
「何かがタタルということはあると思いますか」
・「あると思う」15.8%
・「どちらかといえばあると思う」40.0%
女性では肯定者の割合は六割を超える
「どんなものがタタルと思いますか。」複数回答
・「死者」63.1% 群を抜く多さ。
この国の民衆文化に刻みつけられた「死者の崇(たた)り」の根深さに、あらためて驚かされる。
「さもないとあの子が浮かばれません」
「死者も喜んでいると思います」
「見守ってくれていることでしょう」
これらのセリフが、どのように偏った世界観から発せられているのか、自覚し異なる立場のものへの効果の有効性を踏まえた上で語られるならヨシ。
自覚なく語られるのであれば、世界観を共有しない他者に意図した効果を及ぼすのは難しいんでないか。
せいぜいスタートレックに見る「異文化尊重」のように、「野蛮な習俗を哀れんでもらう」状態に終始しかねない。
![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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