
『妖怪セラピー ナラティブ・セラピー入門』
芥子川ミカ (著)
(2006/07) 明石書店
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これ、心理学者が書いた本ではありません。
自称社会学の女性が仮名で出版なさったご本。
根にあるコンセプトはいいと思うんですよ。
「妖怪セラピー」。
心中の矛盾や問題点をキャラ化して外在化させる、それはいいんだよ、大昔に私も「自殺とは”自殺をさせる憑(つ)きもの”が憑いたせいだ」というコンセプトを弄んでいたことがあるし、今どきの民俗学にしても矛盾解消や焦燥仮託のための共有仮構(極端な例では マナ、命、魂魄、卜占…)がキャラ立ったのが妖怪だとしているし。
だ か ら、 この本を手にとる気になった。
が。
中身ひどいですよ。
妖怪として外在化させる、このコンセプトを「やはりまずい、軽々に扱えない」として私的には大昔に却下した経緯がある。
そこで直面した「慎重に回避すべき難点のかずかず」を軽んじたまま、「思いつき」状態で本になさった。
しかもまずもってこの著者、心の専門家の人じゃないし。

●解決に失礼
セラピー(心理療法)というと、普通はなんらかの解決方法を提示してくれるもんだと思うんだが、著者がこの本でやっていることは「違うやり方はいかが」なだけであって解決は約束できていない。
そも妖怪である必要があるのか。
さかきばらの神はそういう我流の試行錯誤の中から生じたのではなかったか。
すがった概念を御しきれなくなって収拾がつかなくなることが懸念されまくる。
で、その点に対する懸念が浅すぎる。
心理療法の現場を知らない人が、なめて知ったかぶりを書いているような失礼さを感じる。
いや、心理療法界隈はもともとかほどに恣意的に胡乱な分野だったのかな。
●妖怪に失礼
1970年生まれって、水木の時代の妖怪洗礼を受けていない世代だったっけか?
ゲーム世代以降になるからか、妖怪の捉え方がそもオカシイと思う。
後半に妖怪図鑑を載せているんだが、どこが妖怪なんだか、伝統的な和っぽさ、日本的っぽさのかけらも帯びてないような、無粋かつ味もそっけもなく安っぽいゾンビモンスターになっている。
栄養失調の貞子みたいなのとか、児童が描いたコックさんみたいなのとか、うすっぺらな 座敷女もどきとか。
これ妖怪かよ???
妖怪と称してはいるが実際には全くベツモノじゃないのか?
デジモンやデビルサマナーのカードブックじゃあるまいし、妖気ゼロ。
鳥山石燕はどこへ行った。
人心にさえ即せてないような。
... 以下つづき...

自分と同世代以下しか視野にないんだろうか。
もしくは向き不向きも当然のこととして「向いている」人にのみ向けて発信…しているわきゃないな、これじゃ。
いや、かほどに妖怪に対して無神経な世代なら、その世代には妖怪よりふさわしいモンスターやスタンドがいろいろござるだろうに。 ん? 版権フリーを探したら妖怪しかなかったとか?
かてて加えて、畑違いの社会学教諭であるが自分の立場としては仮名で名前を伏せて異分野をかたった本を出しちゃうよという、甘えだかままごとだかなんだか、
なんつーか、つまり、個人的にかなり許せない。
自分がかつて、やっちゃいけないことだと判断したソコを、おもいきし得意げに冒しなさっているこのさま。
周到じゃない。
軽々な書き逃げだ。
京極堂シリーズを30枚重ねのトレーシングペーパーでなぞり損なったみたいな安直さ。
p.7
筆者が『妖怪セラピー』を執筆しはじめたのは、現在の人々の思考パターンに危機感を覚えたことにある。何か人間関係上の問題があったとしよう。この問題を解決するためには、まず問題を把握することが大切とされるだろう。このとき、人の内側にこもるようなストーリーしか用意されていないとしたら、それは大問題だ。
はいはい、栄養が足りないことに気がついて料理をこしらえてみたのはいいが、味付けが下手な上に生煮えだ。
創作屋としての自覚を持てばそれなりにスジの引き締めなり加減なり、小技を駆使していく気にもなろうでよかろうに、社会論屋のスタンスにいるからか、デキてない。はんぱな物語屋はほんと加減が下手だ。
有効な物語を編むスキルを得るまでに達せていない。
ロールモデルを編めてない。
他者と共有できるロールモデル。そこが抜けている。
個人の中でのみ勝手に外在化を実行すると簡単にこじれうる。
剃刀だけ与えて使い方を指南しきってない。
使い方を簡単に察知できるほどの器量なら、もともと問題に苦しみはしていない。
キャラや手段を提示するだけじゃダメだ。
適切なロールモデルを、バリエーション豊富に流布させる方が、流通させるほうが先決だ。
キャラにロールモデルをさせないと生きない。死に体だ。さかきばらになるぞ。
かねてより、この手の無神経な自称社会学者の言動は気持ち悪く。
例えばの1。勝手な仮説自説を結論扱いし、仮構に仮構を重ねることに抵抗がなさすぎる思い込みケース。
例えばの2。既存の概念を間違って解釈しておきながら、その妥当性を検証もせずに問題設定に組み込んでしまい、ズレた説のまま邁進しているおのれに無頓着すぎるケース。
※ 「共感脳」タイプの人間の場合、共感とはすなわち「相手の状態を勝手に決め付けて納得する」ことと紙一重なので、こんなざまになりやすいのかもね。
社会学や論説をやらずに、物語創作活動をやってろよ、と言いたい。
仮構に仮構を重ねる行為、既存の概念を間違って解釈する行為は、物語創作の場でなら好き勝手になさってかまわないんだよ。

で、上の話は三途の川の彼方にぶん投げるとして。
以下、別の話。
【福島的、自称「東北」】この著者、福島に赴任したときの話をちょい織り込んでいる。
そこでまた「福島」にひっかかったんだが、
※ 前回の引っかかり
なぜ福島の人間は自分らのことを「東北」と言うのか。
なぜ福島人は自分らの規範を述べるときに「東北では」と語るのか。
ほかの東北諸県では「自分らの規範は東北デフォルトである」かのように語ることはありますか?
鹿児島人は自分らのことを言うときに「九州では」と語りますか?
滋賀人は自分らのことを言うときに「近畿では/上方では」と語りますか?
なぜ東北南端の福島民は自分らを語るときに「東北」と言うのか。
ほかの東北の5県民、山形秋田岩手青森宮城は福島の亜種にすぎないと言いたいのか。
それとも昔は「東北」と言えばすなわち「福島」のみを指していたような経緯があったのか。
なぜ東北と同一視するのか。
福島的には自分らの東北と日本地図上の東北地方はベツモノなのか。
もしくは「東北」と称することで自分が「福島」であることを曖昧にさせているのか。
よくわからない。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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