神ってこんなに人間がせんさくしてしまえる存在だったのだろうか?


『旧約聖書のゲーム理論
ゲーム・プレーヤーとしての神』
スティーブン・J.ブラムス (著)
東洋経済新報社 ; (2006/05)

Biblical Games: Game Theory and the Hebrew Bible
原書●聖書的ゲーム:ゲーム理論とヘブライ語聖書
Steven J. Brams (著)
Mit Pr; Revised版 (2002/12/2) ハードカバー
原書の初版は1980年
書籍情報と書評:アマゾン 日 米 英.
旧約聖書の節々を取り上げて、その聖書のシチュエーションではプレイヤー(神と人間)が採りうる選択肢はどのようなものか、ゲーム理論で検討し、ゲーム理論で結果を解釈し、ゲーム理論で…
昔、日本のSFで誰だったか、神の言語をめぐって長編を書いていたのを思い出す。神の言語は、接続詞だか構文要素のなんだか、が、「2種類」しかないという、言語としてはありえない構造で! という謎解きあかしだったように、と、うろ覚え。
(山田正紀?田中? あ、検索したら出た。山田正紀の 「神狩り」だった)
そこまでの超越的な何かを、この著者は神に期待してはいない。
神が単なるプレイヤーとして地に引きずり降ろされている。そんな、超越性なんざぁ衆生的にわかる範囲以外は気にしておりませんよ状態。(でも著者は信者なんだよね…)
旧約聖書自体が、まあ、旧時代の物語認知枠に縛られていた人間が記した、という限界をそもはらんでいるのであって、ゆえにそういう地に引きずり降ろすような「解釈できます」解釈でやっつけてしまっていいものなのだ、と考えようによっては済ませることもできる、のかな。
西欧的思考は、プレイヤーを主体に考え、背景をないがしろにし、条件をシンプルにそぎおとし強引に単純化してしまう傾向があるわけで。( 東洋比)
実際の現場では、そんなシンプルな条件で展開する場面はあましなかったりする。
リアルをいじるのではなく、「既存の物語をいじる」のであれば、「物語」はすでにノイズをそぎおとされ簡略化単純化されて成り立っているものであるわけで、ゲーム理論をあてはめて考えるにはかっこうの材料だ、ということなのかな。
しかも、この「物語にゲーム理論を当てはめて読み解く」対象は、旧約聖書=泣く子も黙る世界的ベストセラー。
当該書前書き:
啓示ゲームが至高存在を信じることの妥当性を示唆することを通じて、『旧約聖書』には現代的妥当性があることを示す
どんな啓示ゲームが検討されるのか。
蛇がイブを誘惑するくだり
イブがアダムに示す提案
アダムとイブヘ神がくだす罰
アブラハムの物語
エフタの物語
カインとアベル
ヤコブとエサウ
ヨセフとその兄弟たち
モーセ登場
神の計画とその準備段階
シナイ山での対立
荒野での放浪と民の指導者モーセ
ラハブと斥候たち
ヨシュアに対するギブオン人の虚偽 ・・・・
... 以下つづき...

いや、「ゲーム理論が好きだよ」というお方には、いろいろためつすがめつ楽しめる記述なのかもしれないけれど。
で、物語の無粋なパロディははしょって、後半にある、まとめのコーナーだけをツマミ読みするとけっこうラクかもしれない。
「神の性格はせんさくできる」という前提。p298
p298 神の存在は支配的であり、また人の注意を魅きつけるところがある。だが、決してよそよそしくはない。活力にあふれているために何もしないで傍観していることができず、神は人間の事柄に絶えず干渉し、以前には調和していた人々の関係をしばしばかき乱してしまう(神が干渉してくる理由の一つに、平和や静寂は単調であるということがあるかもしれない。しかしこの節と9・3節で検討するように、より根本的な戦略的・心理学的理由があるように思われる)。
神の心理を解き明かす…!?
チョー不遜。

「神は戦略を練る」という、万能性などどこ吹く風な想定。p.299
常に神は人間を試しまくっているという、そうかい、こういう強迫観念のせいで、 聖書文化圏の人間は「自由意思」に命掛けます状態になっちまっているのか?
p.305
ところで、これは極めてゲーム理論的な見方である。つまり、他人の行動を予期しようとすることで、人間は自分自身の行動をより良く形成できるということである。しかし、ほとんどの場合に、人間には自由意志が与えられているので、神の予測は不完全になる。状況を全体的にコントロールできないので、神は柔軟でありつづけ、変化する状況に対して適応を試みなければならない。
ヒトに自由意思があると前提した時点で、神からは万能性は剥奪されているわけなのか。
…なんという「物語設定」。

著者は「神は公平ではない、えこひいきをする」のだ、と聖書の記述を絶対視するあまりに、神を貶める結論を採る。p.301
「聖者は神の裏をかこうとする」p.302
「神は個人的な理由で復讐をする」p.304
さても。
当該書には「進化がどうの」という話は出てこない。
でも、ゲーム理論自体は、進化研究にすぐれて親和的な理論。
でもって、神にゲーム理論をあてはめるという不遜。
神にヒト心理をあてはめ、投影するという不遜。
当該著者が神の行為に矛盾を見る、それは、著者の解釈の矛盾を神のせいにして押し付けているということになってはいないか。神をなめてないか。
まあ、神に失礼か否かは信者でもないしいったんよっこするとして。

ヒト心理とは、なんぞや。
ヒト心理とは、進化上の諸条件によって結果的に形成されたもの、であるならば。
ヒト心理を投影して解釈してしまえるような存在として神を扱うのであれば、「神も自然淘汰の結果であり、そこらの生物っぽい存在としてあるのだ」ということになってしまう。
聖書解釈に於いては、ヒトの姿は神の似姿だとする説がある。
ヒト心理とは、神の心の似姿だ、と、信者さんは解釈なさるのだろうか。
だから神に対して胡乱な心理投影がまかり通ってしまっているわけなんだろうか。
全然形而上じゃない神さんばかり。交渉相手としての神。神に嫉妬や失敗がありえるという前提。まるでそこらのビデオゲームのわがままプレイヤーのような神さん。
ヒトの心が、神の心の似姿だとするなら、ヒト心理が進化上形成された、と前提する進化心理学は、あちらさん的にはきわめてあり得ない話だということになってしまうわけなんだろうな。
…カソリック、イエズス、プロテスタント、福音派…、どれがどれやら重複も区別もよくわからないけれど、それぞれにおける神の想定がどう異なるのか、一覧があると便利なんだが…

著者はユダヤ系のお方。
ゆえに、新約のほうの聖書は視野にはございません、であるもよう。
聖書に親しくない日本人には、聖書をゲーム解釈されてもあまりピンとこないと思う。
「聖書」ではなく、「ゲーム理論入門」に用いるのであれば、これはかなり使える本。

関連サイト追記 2006/12
書評 「旧約聖書のゲーム理論」 shorebird 進化心理学中心の書評など
![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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