リアルで対面すれば「相手は自分とどう違うのか」察知しやすい。
ネットを介すると、人間は相手のことを「自分が想像できる範囲」でしか解釈しない傾向がある。
どんな失礼をしでかしているのか察知しづらいメディア。
→ 他者が自分とどう違うのかをじゅうぶん察知しない状態でコミュニケーションすることがあたりまえな層が跋扈しているのかなぁ。ていうか、異人の想定さえできないような、想定できたとしてもすべて「コミュニケーション対象外」につっこんで済ませてしまうような?
一言、「あなたのことを**だと思うのですが、これで合っていますか?」と訊ねればすむことなのに、それさえもせずに相手のことを一方的に「**だ」と前提決めつけて話を始める人に…ちょくちょく出くわすので萎える。萎えます。
その想定はマトハズレだよと指摘すると、「想定外はコミュニケーション対象外」なのか、よけい話が通じなくなるか話が終わるか、どっちかだったり。
そういう気まずさがイヤで、もう指摘さえもせずに放置することも。

●例えば。
ブログに書くネタが無くなったらパクリましょう、と唱道しているブログがある。
よそさまのネタを、より詳しく書くとかアレンジして書くとかすれば、いくらでもブログは書けますよと。
→ そうかぁ。
ヨソと同じであることに抵抗がないんだなぁ、と感じ入る。
ネットの均質化に荷担すると、お客様を呼べてより均質化が加速する、そんな図?
マスのレベル(ネット経由のマスコミュニケーション)の中では、おおかたの人間は、自分がトップや異端には縁もゆかりもないただただ凡人であることを噛みしめることになる、まぁ、どこでだったっけか、そういう話が沙汰されていたりするけれど。
異端性のない、凡庸なありようをモデルとして受容すると、そのままで安心していられるのかもしれない。
自分の場を他者見解のコピーで埋めることに抵抗がない
→人間は「自分が想像できる範囲」でしか解釈しない傾向がある
→「相手も自分と同じコピー」だとみなす傾向が生じる
→よけい抵抗がなくなる
でも、幸せな人たちなんだろうな。
これまでも、これからも、ヨソと同じで、ヨソに受け入れてもらえてて、自分が異人である経験などに直面したこともなく、幸せに均質な道で冒険もなく暮らせているんだろうな。
●例えば。
ロボットブログがたくさん増えておりまして。
よくは把握はしていないけれど、検索するたびいろいろ混じり込んでくる。
例えば。
ちょっと拾ってみただけでもこれだけ
ttp://yamai119.com/934B899E8FE18A51/
ttp://anon1.com/945D8E80/
ttp://kusuri119.net/8B5596F2/
ttp://bright7.com/83528343835483938CEA/
ttp://noudepon.com/926D945C/
(「ちがったらごめんね」だけど)これぜんぶ、ロボットごしらえの幽霊ページっぽい。
記載内容はウィキのコピペ。
ああ、どれもなんか形式が同じっぽいんで一括検索できちゃうな。
グーグルで一括検索
ものすごぎょうさん出てくる。
全部が全部ではないけれど、これほとんどがウィキコピペのロボットページなのかな。
いや、まだウィキのコピペだと明記してあるぶん、これらはまだマシなのかもしれないけれど。

はい、とりあえず以上まえふり。
・コピペブロガー
・ウィキのコピペロボットページ
そして。
●例えば。
うちのサイトから、全角約500文字ぶんの文章を、まるまんまコピペして、しかも出典を明記せずに自分の文章のように表示しているブログがあった。
アレンジも省略もしないまるまんまコピペ、しっかり私の文章がお気に入りらしい。
「うちの文章を使うなら、引用の体裁を整えて下さいよ、引用文をカギカッコでくくって、どこからの引用かを明示してもらえませんか」と示しても、先方は拒否なさる。
先方のお答えは、
「あなた(雨崎)の文章には著作物だとみなせるような独自性はないので
引用の形式も出典明記も不要で自由に他人が使っていいのである」との旨。
「そんなどこにでもある文章だというなら、ヨソの文章を使ってくれよ」と示しても、先方はそれすら拒否。
なんだこれは。
私の文章は人工無脳の作品だとみなされた?
独自性の基準はコピペ屋さんが決めるわけ?
著作権法はいつこのような解釈ができるように変更になったのか、どなたかご教示下さいまし。
いろいろな影が頭の中をめぐります。
●これまで、「引用」の体裁を整えてくれと指摘して、応じなかったサイト管理者・論文執筆者はいなかった。
他者の文章を一方的に「著作権のない文章」と断定しうるような解釈変更が著作権法になされたのはいつ? これはただのコピペ屋さんの妄想?
うちの用語集には「私」も創作性もないとみなされているのかと思うと、かなり萎え萎え。
●ウィキコピペページと同類にみなされたのかな。
手作業で
私などが尽力せずとも、この程度のことは世にあまたあるロボットページさんたちが何の苦もなくやって下さっているんだろうし。
●自分のありように独自性を見出していないから、他者のありようも尊重できないのかな。
こないだから一部で話題になっているのが「共感性」だったりしているけれど。
男は共感力が足りなくて、他人の不幸を喜び他者を踏みつけにすることに抵抗がない傾向があるだのどうだの。
コピペ屋さんにしても、他者のありようを察知する能力、共感力、あんまりないんだろうなぁと。
●そういえば、
パターン化したキャラ。類型化した登場人物のセット。
そういう既製のマス向けストーリーな世界観も、均質化観に拍車かけているのかな。
●昨日から、カオナシが脳裏に浮かんでいる。
他者のエコーの言葉しかしゃべれず。
基本素直だが、欲にまかせた行動もとり。
キレたあとはしんなりし。

ネットは均質化している部分としていない部分がある。
均質化に抵抗がない目には、ネットはなおさら均質に見えているのかもしれない。
コピペ扱いしてはいけない部分があることが、見えていないのかもしれない。
●ものごとが均質っぽく見えてしまう人は、他者を救いに来ないで欲しいと思う。
救われていない人は、均質(スタンダード、正常、ありきたり)の外にいるのだから。
均質に戻れ、均質のほうがいいわよ(自分のほうが正常)といざなう限り、その者は、均質の外を見下している。蔑視している。
想定外や評価の外を、受け入れていない。
均質は幸せだろう。
が、均質の外を、貶めている均質は、ダメダメ。
「理解できない」といいながらすり寄ってこられても、そりゃ「救われる」側にとってはただただ気持ち悪いだけ。
尊重をしてくれ。取り込もうとするな。
●物語の尊重。
顔のない物語の応酬でネットが形成されているとみなすことは、個人の精神衛生に少なからず悪い影響も与えているんだろうな、例えばセルフエスティームの度合いとかさ…
たとい、はた目に均質ありきたりに見えたとしても、「個人がかかえている人生の物語」は、その個人にとっては唯一無二。
個人の発する文章には、そりゃコピペも無能も少なからずあるだろうが、その人個人の「ゆずれない物語」の一端が表出している箇所もあることを、忘るるべからず。
そういう尊重、共感、察知もできないカオナシに、無粋に踏みつけにされる恐怖、そういう恐怖、ああ、まあ、それで筆を折った過去もあるわけだが。
ネットもだいぶ変質したよなぁ。
そろそろマジ
...以下つづき...

仕事明けにわだかまりをぼーっと並べてみたが。
つづきったって、いまここで書ける部分はだいたい上記のことどもくらいかな。

「0.06%のネチズンがニュースサイト意見全体の25%量産」2006/01 【日本語記事】 中央日報@韓国
日本でもアメリカでも似たようなもん。
アクティブはわずか。
力のある発信者はよりわずか。
もともとネットにしても
ごく一部が、波のモトを生み、あとの有象無象な大勢さんはそのエコーとコピペ。
その人が接する範囲がエコーとコピペばかりだとしたら、その世界観の中では、創る行為や他者尊重は、影薄いんだろうな。
いろいろなことが頭の中をめぐっているけれど、ある程度めどがついたことだけ、表に出すようには、している。
今回は、めどのつかぬまま、吐き出しています。失礼いたしました。


追記:事態発覚から一ヶ月以上かかりましたが、事件は無事解決いたししました



![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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