
文春新書
「なぜ日本人は賽銭を投げるのか 民俗信仰を読み解く」
新谷尚紀著
文芸春秋 2003/02
[bk1]
出版社の意図と、書き手の視野が、ちょっとずれているかな残念だな、な一冊。
新谷尚紀氏は著作も多々あり、数多くの研究書も編纂している、その道の重鎮クラスの先生。
その先生が、いろいろな誌面に寄稿したり連載したりした、元稿1997〜2002年の寄せ集めが、この本。
タイトルはとってもあとづけ。(出版社側の意向だったようだが)
もとより「一般人にわかりやすくおもしろく」民俗信仰を説くことを主眼として著されたものだとは言い難い文章が並んでいたりする。わかりにくいよ。

ていうか、ぼんぼん自分的見解を折り込むわ、話をはしょるわ、一応「読み解」いて下さっているのかもしれないけれど、記述があちら側(研究者側)すぎる部分もあるし、バランスを欠いた記述も見られるし、なんかオススメするにはつらい内容になっている。
実際問題、巻末の「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」についてのエッセイだけつまんであと投げ出している感想文も見かけたりするし…
「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」みたいな
「一般初心者向けのトリビアをあげますよ、へえー差し上げます」
めいたタイトルに惹かれる層には、当該書よりはこちらの2冊のほうが、がぜんオススメです。


『図解雑学 こんなに面白い民俗学』 八木透編著 ナツメ社 2004年
『目からウロコの民俗学:あのしきたりには、こんな意味があったのか!?』 橋本裕之編著 PHPエディターズ・グループ PHP研究所(発売) 2002年
当該書の「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」は、新書よりはハードカバーのほうが似合っていたかもしれない。「へえー」よりは「はあ?」度のほうが高めでございます。
で、表題の件、「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」に立ち戻るとして。
新谷氏は贈与論を引き合いに出しながら、
・貨幣は、磁石のようにケガレを吸い付ける道具である
・人々の潜在意識のなかには、ケガレを祓へ清めたいという衝動がある
・ケガレを清らかな場所に投げ込みたくなる衝動が、人には備わっている
・神社はケガレの吸引浄化装置である
・ゆえに人はケガレをさいせんに託して神社に渡し、清らかになるのだ
という図式を描いていく。
…ちょっと待てよ。
…おかしくない?
…もうちょっと説き明かせない?
●パターンその1
一昔前には「首切れ馬伝説」など確かに貨幣制度は撹乱を呼び、ケガレや怪異を巻き込んでいた。
旧来の生活においては、何にも使えないはずのただの「記号物体」が、人間どうしのお約束の中で、由来もなく突然「価値」を帯び強力な意味を行使するようになった、そんな妖しい物体、それが、「金銭」。
素材自体のありようにおいてはありえない強い価値を帯びたもの、オフダやお経、式神の形代、クラの贈与アイテム、マナ、それらの系列につらなる「力」を帯びたものが、「金銭」。
金くずが、「金銭」とみなされた時点で、それはもうすでに「呪物/じゅぶつ」なのであって。
...以下つづき...

プラマイのないゼロ値の衆生のもとに「金銭」という「呪物」がもたらされると、旧来の力のバランス、贈与関係バランスが崩れて、確執や混乱が引き起こされる。
「首切れ馬伝説」は、「金銭ぶんだけ馬を売るなら首なしの馬になるが、それでもいいのか!」という、当時の違和感をショッキングに表した象徴。
そういう意味で、「金銭」という「呪物」は、マイナスの<呪>、喜ばしくない力、つまりケガレを帯びやすくなる。
かといって、金銭を生活から排除しきるわけにも行かない、金銭はマイナスの力を帯びたまま家の中に入り込み、力のバランスを偏らせていく。過剰にもたらされたマイナスの<呪>を、そう、マイナスの静電気みたいなもん、これを適切に放電させ力のバランスを回復させる手段は…
ということで、プラスの力に満ちているお社で、マイナスの<呪>を帯びた金銭を放って、プラマイバランスを回復させる。
まあ、民俗解釈は本来「創作」に近しいものなのではありますが。
ケガレ・ハレ。
これを生み出すのは、現代的解釈では「脳」ということになる。
一般的解釈では gut feeling, つまり直感的感情。
脳は、いろいろなものにそれぞれ「感情的反応」をしたりしなかったりする。
「感情的反応」は、生物が生きる上でむっちゃ重要というか、理性以前に「気に入」らなかったら拒否するし、「気に入」るなら理屈をこじつけてでも執着してしまうもの。
その理性以前の「感情反応」は、人間の文化においては往々にして「実在しない観念的な力」として扱われる。
<呪>しかり、ハレ・ケガレしかり、マナしかり、聖性しかり。
人間の脳が、周囲の事物に張り付けた、好悪の感情。
●パターンその2ハレ・ケガレ論はともかく。
そもそもさ。
現代人的には、「ケガレを祓うために賽銭を投げている」と言われて、実感わく?
現代人的には、おさいせんして、願をかけて。
神社から何かを引き出すために、おさいせんを投げてないか?
個人的には、お賽銭を投げることによって、人は神社の力をちょこっと押し出し、それをうまいことかぶって帰ろうとしているように思えるんだが。
オトクな力を、金銭の力でちょいと押し出して、いただいて帰る。
それだけのことであって、べつに金銭でケガレを祓っているようには思えない。
ケガレを祓うのであれば、さいせんではなくちゃんとそれなりに樒を振ってもらったり香をたいてもらったりしないと実感はわかないのではないのかな。
もしくは契約の押し売り。
賽銭を押し付けることによって、神社にいる何かを使役しようとする、自分のために働かそうとする。
そのあたりの感覚は、神に対すると言うよりは、式神や眷属に対して命令を下しているような、けっこうそんな不遜な感覚でやってたりしないか。
「ケガレを祓うために賽銭を投げている」路線は、現代的にはこれ 「銭洗い弁天」の話だったらなんぼか納得も行くのだけれど。
洗ってます。ケガレを。
みなさんせっせと。(それだけじゃなくご利益も刷り込もうとしていますね)

で、ふと思うのだけれど。
初詣は宗教行為として勘定してしまっていいのだろうか。
宗教行為として行っている人もいる。
知人に神道ぞっこんな人がいたし、それはわかる。
でも、宗教行為とはほど遠く、雑煮や書き初め、はてはクリスマスと同じレベルの季節的イベントとして参加しているだけの人も、たくさんいらっしゃる。
鏡割りは信心の現れか? 節分は宗教か? こいのぼりは信仰か?
契約の押し売りとしての賽銭、これにしても信仰心・宗教的行為とみなしていいものかどうか。
…形式の上では、宗教的行為なのかなぁ?

どうなんでしょうねえ。
15日はたぶんうちも地元の神社のどんど焼きに行ったりするんだけれども。
これも信仰の現れ扱いされる?

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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