
「お寺の経済学」
中島隆信著
東洋経済新報社 2005/03
[bk1]
できばえはけっこう微妙。
ハズしまくっているところもあれば、「お坊さん読むべし!」な部分もある。
で、イロモノっぽい部分が前半に集中しちゃっているのでちょっと読みはじめはつらいかも。
後半はグッと挽回していくんだけどね。
後半オススメ。
「お寺の経済学」 p.99いいセリフ。
「僧侶は本来_無職業_であるべきだ」
インタビューのとき、ある住職はいった。確かに仏に仕える身である僧侶にはこれといった仕事があったわけではない。救いを求める人がいれば誰に対しても手を差し伸べる菩薩行を実践するのが僧侶の務めである。しかし、近代的な分業体制が進むにしたがって、僧侶も何か「仕事」をしなければならなくなった。仕事はいつしか生業となり、僧侶は生活のために就く職業の一つとなってしまった。
この先、檀家制度が揺らいでいけば、僧侶はもはや葬式サービス提供者としての職業すら失うことになりかねない。それは僧侶自身が「無職業」という本来の姿に立ち返るチャンスと考えるべきではないだろうか。そして、これまで専門職に奪われ続けてきたさまざまな「衆生を救済するための仕事」を取り戻していく番である。
宗務庁と所属寺院の経済関係。
賦課金(上納金)のごまかし。
被包括宗教法人から単立宗教法人への鞍替え(独立)。
お布施の額の都市-地方間格差。
お寺にとって布教活動がマイナスである場合とは。
都市部のお寺のほうが成功する場合。
お寺を免税にしていていいのか否か。
本来、根っから公共にオープンであるべきお寺。(でも年末に仏像盗難が頻発したね…;_;)
へぇ〜
もいっぱいで、現代的にスジも通っている。取材先には近隣のお寺はもちろん、沖縄、タイにも現地取材を敢行なさっている。
エライです、この機動力。
本土とは大きく異なる沖縄のお寺の位置と機能を紹介しながら
・檀家制度がない
・お墓で儲けられない
・戒名を付ける習慣がない
そのありように「今後の本土のお寺の将来像」を透かし見て警鐘をひとしきり鳴らしてみたり。
そして、
「お寺の経済学」 p.220と打ち出す。
お寺の再生を図る道は一つしかない。それは墓をお寺から切り離し、檀家制度を一度完全に解消することだ。
では、檀家制度を解消した後、お寺は何をどうすればよいのか。
...以下つづき...


檀家制度自体を無くすことの是非については、保持できればそれにこしたことはないだろう、など、諸説あるだろうけれど、とりあえず、お寺が現状改善のためになすべきことの具体例は、
さて。
後半の現代パートは良かった。
「今どきのお寺」の解釈・分析はごもっとも。
でも。
前半の「仏教史を経済学的に読み解く」パートは、なんかものすごいイロモノっぽい記述になっていて、これは読み手によってはアレルギー出るかもしれない。
この経済学の先生(慶應義塾大学商学部教授:主に応用経済学、経済学の実証分析など)、かねてより仏道に造詣が深かったわけではなく、この企画のために、仏道の本を読むなり取材に行くなりなさったらしい。
「お寺の経済学」 p.9-10でも。
この本を執筆するにあたり、仏教関連の本をいろいろと読んでみた。「経済成長を至上命令とする経済学はけしからん」、「欲望の追求を賛美する経済学者はとんでもない」と書かれた本もあった。しかし、本来、宗教や学問は人間を幸福にするためにある。その点では経済学も仏教も同じである。
微妙に「幸福」の中身は違ったりするよとか、いろいろツッコミ心がそそられる。
「お寺の経済学」 p.5「合理的」というよりは、「功利的」。
人間の行動には合理性があるという前提の下で世の中を見ていくのが経済学である。
功利から読み解いていくと、倫理や仏道にはほど遠い世界観ばかりになりかねない。
ほど遠い世界観。 冒険的な「過去解釈」炸裂。
「お寺の経済学」 p.21ギャップがあられもなさすぎて、かえってほほえましいけど。
[地位を捨て教義をわかりやすくするという]リスクをとることでそれまで仏教が対象としていなかった新たな支持層、すなわち新規市場が開拓できたのである。
日蓮はこの流れの中で最後に登場した人物であった。そのころすでに新規市場は浄土宗と禅宗に奪われてしまっていた。後発の参入者は既存業者から顧客を奪い取らなければならない。通常の財・サービスであれば、新規業者であっても優れた商品を開発して市場に出せば消費者は次回からは買ってくれるかもしれない。
「お寺の経済学」 p.22解釈がサラリーマン的。
ひろさちや氏は「江戸時代に仏教は死んだ」と述べている。「死んだ」ということの意味は、仏教信仰という商品が日本市場では取引されていないということだ。
記述がマーケティング的。
「お寺の経済学」 p.82-83笑うっきゃないパロディ状態?
僧侶の行政改革
僧侶は特殊技能者だから他の部署との人事異動は容易でない。また、宗教活動には専門性の高い知識が要求され、他者による客観的な業績評価も難しい。そのため、政治と癒着し公務員としての本分を超える僧が現れたり、綱所での公務員人事がおざなりになって有能な人材の登用がされなかったりする弊害が生まれた。
安直に現代に引き寄せすぎ。
古代の心性の話に及ぶと、とたんに
だったりして。世の中には、こういう形でしか翻案できない人々・理解できない層が、きっと確実にいるんだなぁと、感じ入ることしきり。
まあ、これも方便の一種、エンタテイメントの一種だと思えばそれなりに楽しく。(信仰者のご機嫌は損ねるかもしれないけれど)
それはそれとして、「首切れ馬伝説」 ほか貨幣制度の導入が生んだ妖怪・怪異たちの話にもぜひあたってみて欲しいな、とか、思うのですが。
そう、「お寺の経済学」の段階ではなく、「首切れ馬伝説」 とその関連考察(貨幣経済と贈与文化の確執)を消化したあとの、さらなる先生のお話をうかがってみたいなと思ったり。
「お寺の経済学」というタイトルからは、
・個々のお寺がどういう収支で成り立っているのか
・利用者との金がらみのリアルなトラブル事例
・うさんくさい金の動き
みたいな内容を想像してしまったりしたけれど、そんな生臭い話もなく、お行儀のよい前向きな授業みたいな著述でございました。
で、仏の側の身は、何を読みとるべきか。
商売のコツじゃない。そこだけを読まれると困る。
「お寺の経済学」 p.147-150 【大意】成り下がってくれるな。
一般の売買のように売り手がお客に「ありがとうございました」と金を受け取るのではなく、お客が売り手に「ありがとうございました」とお礼さしあげる関係、それが、教師や医師や僧職。
レディメイドのサービスを売買するのではなく、ベストを尽くしてもらった恩に対して、礼を申し上げる。
レディメイドのサービスであれば「定価」のつけようもあるものを、恩に対する礼には「定価」「相場」はつけようもない。
ゆえに、本来であれば、布施には「定価」「相場」はつけようがないし、その「定価」「相場」のなさを自然に機能させるには、布施をする側がふだんからお寺(とその機能)にかねがね恩を感じている関係であることが望まれる。
さもなければ、「定価」「相場」なメニューを客に見せて回るただの葬儀サービス屋、宗教商売に成り下がってしまう。
この著者は、知ってか知らずか、外野の衆生が仏門や寺社に抱く期待を、代弁している。お寺への期待を集約している、とみるほうがいいと思う。
寺を攻撃しているわけじゃない。
寺のためを思って、経済学者からあがった声。
なにより。
お寺と仏教に触れることによって、ほかならぬこの著者本人が救われている。
障害児の父である著者。
「お寺の経済学」 p.223その著者が。
実はこの本を書くまでお寺についてほとんど関心がなかった。
仏の言葉に触れることによって、これまで以上に、我が子を 福子とみなして言祝ぐ暮らしを、仏の道から授かった。
住職のお知り合いもできた。
もとより、日本の衆生の心情に親和的に醸成されている日本的仏道。
「ありがとうございました」と自然にお寺にお礼をできる関係になるには、なれるには。
寺を集会所にする、寺をご近所イベントの場にする、寺を有効利用する妙案の数々は、
『人の集まるお寺のつくり方』 p.155
残念ながら現在のところ、寺院のことをどうしても必要だと考えている日本人は少ないだろう。しかし実は、潜在的にけっこう寺院は期待されているのである。どこで期待されているかを、寺院がつかみきれていないだけなのだ。
ことさらに「経済」「収支」「功利」などをキーワードにしなくても、志一つでお寺を盛り上げることは可能です。

神社ですが、おさいせんの話ならこちら。
経済がらみな「お寺の怪談」を読んでみたい人には、こちらなどどうでしょう。
寺は宗派のもの。
お坊さんの持ち物ではない。
住職が亡くなったら、住職の妻子は「無一文で」寺から追い出されて路頭に迷う!
まさにお寺残酷物語…。

「お寺の経済学」 p.188先生、それはフライングでは・・・
近年のシャーマニズムの研究から、ユタやイタコといった霊媒師には何らかの精神障害があるということがわかってきた。


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