異文化における科学。科学に影響する文化差。
東の思考。西の思考。





「サイエンス・コミュニケーション 科学を伝える人の理論と実践」
S.ストックルマイヤーほか編著
丸善プラネット/丸善株式会社出版事業部 2003/07
[bk1]
冒頭p.2で「ステファン・J・グールド」になっているのは訳者のご愛敬。
私的には第2章がツボ。
第2章「異文化理解としてのサイエンス・コミュニケーション」グレン・エイキンヘッド
格好の事例として挙げられるのは、1988年のトラウィーク・レポート(『ビームの時間と生の時間』)。
日本の高エネルギー物理学研究現場を観察した人類学者が、彼ら日本人物理学者は西欧から見て実に興味深い行動と異様なコミュニケーションをしているぞ と報告した話。
...以下つづき...

先週のこれは「イエ」対策?
ロンダ・シービンガー著
「ジェンダーは科学を変える!?」
工作舎 2002/01
(原書1999/ Has Feminism Changed Science?)
p.112
素粒子物理学のコミュニティを研究する民族学者シャロン・トラウィークは、多くの物理学者が自分を、自尊心が強く、負けず嫌いと見たがることに気づいた。
p.207
トラウィークは、日本の物理学の一つのモデルは「イエ」すなわち家族で、そこでは一人一人は個人的利益のためではなく、「イエ」を維持しそれを次の世代にそのまま渡すために働く、と論じている。
> 若手研究者に独立の部屋やスタッフ、旧弊打破へ新事業
> 2005/12 【日本語記事】 読売
![]()
「現代科学論:科学をとらえ直そう」
井山弘幸・金森修著
新曜社 2000/11
p.142-143
トラウィークは五年もの間、つくばの高エネルギー研究所や、シカゴ近辺のフェルミ国立加速器研究所などに滞在し調査した。
L・J・シェパード
「ヴェールをとる科学:科学と女性性」
誠信書房 1997
(原書1993/ Lifting The Veil)
p.121
人類学者のシャロン・トラウィークは、高エネルギー物理学者たちを調査したところ、彼らは合理性、客観性、そして科学に携わっていることの証として社会的に変人で、子供のように自己中心的であることに気づきました。若い物理学者たちは人間の心の動きとか「主観的」なことには関心がないとしばしば言い放ちました。 {中略} 他の人とうまくやっていこうとする気遣いを見せることさえ、「何か科学者らしからぬこと」とみなされました。
元の本に戻って。
「異文化理解としてのサイエンス・コミュニケーション」。
日本の物理学研究者は、(p.43-44)
・日本的な「リスクのとり方,権力関係,文化,主観性」の影響下にいる
・日本の物理学界と国際的な物理学界とにある文化差で苦労する
・国際的な物理学界に越境した者は、同僚からイジメやからかいを受ける

Beamtimes and Lifetimes: The World of High Energy Physicists
Sharon Traweek (著) (1989/07/01)
このトラウィークさんの『ビームの時間と生の時間』とやらは前々っから気にはなってはいるんだけど、邦訳はないの? 日本語では読めない状態?
科学の内部でも、各分野で「規範,価値観,信念,期待ならびに慣習的行為」は違っているし、国内外でも、違ってしまっている。
そしてそれらは、もとより市井の「規範,価値観,信念,期待ならびに慣習的行為」とも違っているのであり、それらの断絶を橋渡ししたり、翻意したりする作業は、これまで異文化間の調整において培われてきた「異文化コミュニケーション」研究の知恵を有効利用するにこしたことはない。
しかし、それぞれに異なるであろう「規範,価値観,信念,期待ならびに慣習的行為」の中でも、「価値観」が違っている場合。
しんどいね。
しかもそれぞれ、自分がどの価値観にいるのか客観的に見えていない場合が大半だし。
そこの指摘から入るべきなのか否か。
めんどくさくて放置してしまいそうだ。
「異文化理解としてのサイエンス・コミュニケーション」
p.54 大意
先住民科学と西洋科学は目指すものが違う。
・自民族の存続が目的か、権力のための知の贅沢が目的か
・「神秘」を祝福し自然と共存するのか、「神秘」をあばいて根絶するのか
・直感的,主観的で相互連関的 vs 形式的で客観的で脱文脈化
・やさしくて親切で全体論的 vs 攻撃的で操作的で還元論的
先住民科学は野蛮ではない。
何より、人心や人生にとって適応的だからこそ、成立してきた知恵の集積。
現世の幸福を是とするのであれば、人心の安寧を願うのであれば、「世界のため」「人類のため」「国のため」のような共同幻想を振りかざして今ここにいる個を踏みにじるような科学言説は


イヤでも、人々の元に科学技術はやってくる。
共存しなけりゃならないし、相手を知りたくなくても知らなければならないことがある。(こんなことを書いていると見知らぬネイチャーオルタナさんがいろいろ寄ってきてしまいそうだけど)
科学技術にもインフォームド・コンセントがあるのですか。
『科学技術倫理を学ぶ人のために』
新田 孝彦, 蔵田 伸雄, 石原 孝二編
世界思想社 (2005/06) [bk1]
第1章 「エンジニアリングの倫理」 岩崎豪人
p.32-33
1 同意が自発的になされたものであること。
2 同意が正確な情報に基づいてなされたものであること。
3 同意をする人が情報を理解し、理性的な決定をする能力を持っていること。
という基本的な条件に加えて、被験者が特定できない状況では以下の条件を付け加える。
4 理性的な人が必要とする情報が理解可能な形で述べられ、広く流布していること。
5 同じ利害や懸念を持ちリスクにさらされる人々を代表するグループが代理同意したものであること。
医療ならインフォームド・コンセントの和訳は「納得医療」らしいけれど、科学技術でインフォームド・コンセントとなると、「納得技術」?
これを見て思い出すのが、
『米国先住民族と核廃棄物』
わずか120人のコミュニティ、ユタ州スカルバレイのゴシュートインディアン。彼らの部族議会は核廃棄物貯蔵地受け入れの英断を下すが、その受け入れ根拠ははたから見れば核推進派の美辞麗句まるのみ状態。小さなコミュニティの中で反対派との軋轢も絶えない。受け入れのために交わした契約は、結果的に彼らの異議申し立ての権利をすべて奪ってしまっている。あまりに不平等な立場に陥る結果になった”自発的な決断”。
情報は偏っていなかったか。
「代表」がくだした決断・契約は、もうひるがえすことはできないのか。
「代表」はどこまで権限を与えられていたのか。

科学やってらっしゃる人には「世界のため」「人類のため」「国のため」と共同幻想を是として疑わない人々がよくいらっしゃるのだが、それとてはた(異文化・異分野)から見てみれば、往々にしてトンデモの香り高い逸品だったりしている。
「異文化理解としてのサイエンス・コミュニケーション」自文化中心主義、自分野中心主義。
p.47
ロンジーノはこの学問中心型の価値観のセット(たとえば,倹約,正確性,無偏見性,客観性など)を構成的価値(constitutive values)と呼んでいる。この構成的価値と対比的なものとして,彼女は科学者が日常生活を営んでいる科学外の社会的文脈を指摘している。これらの文化的価値を彼女は文脈的価値観(contextual values)と呼ぶ。彼女の研究では,構成的価値よりもこれらの文脈的価値のほうが,どの「事実」を信じるかという科学者の意思決定に強い影響を与えた事例が記述されている。そして結論として,現実に実践されている科学(science-as-practiced)は想像されている科学(science-as-imagined)とは違って,価値中立的なものではないと述べている。
そして、仲介者自身が、自分の価値観の位置を見誤っている・把握しきってない場合、そういう例は多いんだろうけど、本人は善意であっても、たまに沙汰されるような「仲介者はやつらの従順なイヌ」状態に終始しかねないわけで。

それはそれとして。
西洋の「観察」と日本の「観察」はチガウのだという、このくだりにはかなり「へぇ〜」。

「異文化理解としてのサイエンス・コミュニケーション」
p.57-58
アニミズム的感覚によって強化されるために,日本人は,自然物を,西洋科学者たちがするように価値自由な探究の単なる対象物としてみなすことができない。英語の observe という単語はたしかに日本語の「観察」という言葉で翻訳されるが,しかし,それは正確な翻訳にはなっていない。なぜなら,「観察」という語には,深く精神性に基づく関係性が内包されているからである。それは,西洋科学的世界観の基本の一つを形成するデカルト流の二元論(心と物質という二分法)によって前提される客観的な関係性とはまったく異質なものである。
「観察」問題に内包されている「観察者 - 対象物」の関係性は日本文化に固有の問題ではない。ほとんどの先住民言語では,デカルト的意味を内包したobserveという動詞を持っていない。
ほとんどの先住民文化には、西欧で言うobserve概念はなじまないし、しいては科学(異文化)の導入はストレートには行かず、文化的変容を伴うか、軋轢を経験することになる。
人心にはなじみにくい「科学」はもう、そのあたりのごくごく基本的なところからなじまなさを孕んでいる気配。
「異文化理解としてのサイエンス・コミュニケーション」 p.59 大意
・日本人は、西洋科学をまったく新しく変換して取り込み、彼らの心を保護している。
日本人が見ている科学と、欧米が見ている科学は、すでに少なからず違っているのだと。

概して、西の文化は個から世界を見る還元主義的志向性、東の文化は世界の中の個の位置から考える全体主義的傾向、があるとされる。
東西の文化差、「観察/observe」の差が大きく作用している例としてよく沙汰されるのが、サル研究の分野。
『ゴリラ』
山極寿一著
東京大学出版会 2005/05 [bk1]
p.16-17 大意
・社会の定義と見方において、日本の霊長類学と欧米の霊長類学の間には根本的なちがいがある。
・日本は「関係」を働きとしてみなし、サルの集団構造とそれを支える社会関係を見てきた。
・欧米では個体を進化の単位とし、社会の定義は「協調的に組織されている同種個体の集まり」に限定された。
・日本と欧米では社会の定義が異なり、野外研究が目指すものにも大きなずれがあった。
ほかにも、「人格障害」や「精神病」のとらえ方においても、文化影響が。

茫洋としたままだけれど、「異文化」はそこらじゅうにあるし、それをめんどくさがって「優劣偏見」や「優者による啓蒙」で済ますのも勝手だろうけれど、自分自身を含めた関係を改めて見つめ直すのも、「研究」であり「観察」であろうし。
「所属」すると安心なんだろうな。
「科学」の側であれ、「市民」の側であれ、「日本」であれ「正常」であれ。
「所属」すると見えなくなるものは何か。
「所属」を拒否して見えてくるものは何か。
どっちにしろ、どんな人間も死ねば「死者」に所属する。
コミュニケーションの対象外に放り込まれる。
「死者」に属するその日まで。 何を見る。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







次の記事 














