「尊属殺人の犯人は、18歳頃までに近親者の病や死を間近で看取る経験をしていない者たちである」
〜 カール・ベッカー

『仏教と生命倫理の架け橋』
人間・科学・宗教ORC研究叢書
鍋島直樹、井上善幸編 法蔵館 (2008/08)
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ブータンに関する話を立て続けに出しましたが、あまり”チベット仏教”にばかりかまけても「なんだブータン vs 日本の話なのか」と短絡されてしまうっぽいので、急いで次に進めます。
イスラム世界のお話は次回に持ち越すとして。
今回のネタ本は、西欧、タイ、日本など、各国の仏教関係者が、バイオな生命倫理のフィールドをめぐってそれぞれの考察を述べた記録が収録されています。なにせ、これらの研究のバックには天下の【文部科学省】さんがついていなさるのです。ウサンクサイと思ったらあきません。「文部科学省選定・私立大学学術研究高度化推進オープン・リサーチ・センター整備事業」 の成果として、この本があるわけなのでございます。仏道が科学を取りなすシンポジウムの成果という、けっこう貴重な一冊でございます。
この中でも、タイの仏教者が語る倫理規範が、バイオテクノロジー以前の世界にあるブータンとはまた一味違った論理的なタフさを見せていて、なかなかに乙なんですよ。

【相対主義には慈悲心が欠けている】
まず、日本代表として、鍋島直樹氏のこのお言葉を一発出しておきます。
■鍋島直樹「仏教と生命倫理 創と想」p62「縁起の生命倫理学 智慧と慈悲」p181 大意:
相対主義と縁起思想には大きな相違がある。
「支えあってつながっている」という縁起的視座が、相対主義には欠けているのだ。
縁起的視座は、「支えあってつながっている」という、命(いのち)あるものへの慈愛・感謝・責任を積極的に生みだす効果を持っている。
はい、このブログをやっている雨崎は、基本的にたいへんオキシトシンが少ないもので、全然慈悲心は持ち合わせておりません。ゆえに、相対主義に陥っておるのでございますが。
それがゆえに、というか、相対主義だけでは、アノミーやニヒリズムの底なし沼を抜けるすべはけして得られないじゃんよ、という煉獄的隘路については身に染みておりますので、「慈悲心を醸成する」プラットフォームをしっかり提供する縁起思想は、アーキテクチャの要素として「スゴイ」と一目置くしだいでございます。
なにより、社会性動物として生存することを前提にできあがっているヒトの心理作用は、「支えあってつながっている」感(共感能力)によって、最も効率的に幸福度がアップするようなデフォルト仕様になっているわけで。
持続可能性の高い文化規範や宗教で、この「支えあうつながり」感を抜きにして成立しえているしろものは、皆無だと思う。
その点、どなただったか、仏門に親しくありながら、相対主義を掲げて文化人類学に腐心なさっていたあの学究者さんは、このあたりどのように心の落としどころをつけていなさるのかなーと、うかがってみたかったりしているのでありますが。

【生死は「無記」である】
さても、モノは「仏教の生命倫理」がテーマである本なわけで、まずは「生命の定義」をつまびらかにしないと話が始まらないんでしょう。
仏道では生命の定義はどうなっているか、と、いうと、そりゃもういかにも諸行無常の仏道でありますな、生命の定義は、「ない」。
■マルコムD.エッケル「智慧と慈悲 生命倫理の基本的課題に関するキリスト教と仏教の洞察」p22
仏教初期経典『中阿含経』にみる生命の定義
>仏教倫理学者デイモン・キューンの解釈:
> 活動力、体温、意識、その三つがなくなったときに、人間の体は命のない状態となる
>これは現在の医学では、脳全体の死、全脳の死、を指すものとみなせる
>ジョン・アンダーソン・マイアー博士の解釈:
> 意識的な意志力を失った時点で無生物になる
>これは、脳の意思的な活力が失われた「脳死」に該当するだろう
仏教の初期においても、この現在議論されている二つの死の考え方が解釈可能である
同じ経典をよりどころにしても、見方によってこんなに生命の定義は異なってくる。
なお、このマルコム・D.エッケルさんはボストン大学教授のアメリカ人さんです。
ちなみに、チベット仏教の研究が最も盛んな異文化圏は、フランスになります。
・・・でも、そのフランスのサルコジ大統領は、先週「チベットは中国の一部だ」と、G20金融サミットで宣言したんだよな。なんのこっちゃ! 政治と理解はべつもんかい!

■マルコムD.エッケル「智慧と慈悲 生命倫理の基本的課題に関するキリスト教と仏教の洞察」p25
究極的には仏教においては、命、そしてその始まりと終わりは絶対的に定義づけられるものではないということが仏教思想の根底にあります。つまり、すべての命、存在は無常です。
仏教の究極的立場からみれば、命あるものすべては、時の推移とともに形を変える無常な流れの中にあるからです。
涙が出そうにまっとうな見解です。あたりまえのことなんです。そのあたりまえのことを、なんだかよくわからない旧態然とした「西洋的な文化規範」に何とか適合させようとしてごちゃごちゃやっているのが、きょうび一般に「これが倫理問題だ」と紹介され語られている問題群。
後日イスラムについての話のときにもぼやくと思いますが、西欧の文化規範は「無いものを勝手に”ある”と想定してはばからなさすぎる、とっても逸脱しまくりな文化」なんですよ。
... 以下つづき...

【中道 中庸】
仏道では、執着を厭います。まして「ない」ものに執着するなんて、言語道断です。実際には「ない」のに、「ある」と思い込んで、心を偏らせてしまっては、まっとうな道を歩めなくなる。
この”何かが「ある」のだと平気で思い込む”という問題は、イスラム教の規範とも合わせて参照すると、たいへん面白くも情けない西欧世界(キリスト教文化圏)の戯画を立ち上げることができるっぽいので、後日楽しくご紹介&活用したいと思います。
で、仏道では執着を厭うて、心を偏らせない生き方を目指すわけなんだけれども、その偏らない生き方は「中道 ちゅうどう」、偏らない有り様は「中庸 ちゅうよう」と呼ばれます。(ちがったらごめんね)
■マルコムD.エッケル「智慧と慈悲 生命倫理の基本的課題に関するキリスト教と仏教の洞察」p26
中道とは、ものごとの本質について二つの極端な見方をすることを離れる道です。
さまざまな物が、絶対永遠の同一性を有すると考えるべからず
┗欲望、憎悪、苦しみを引き起こす
さまざまな物が、まったく同一性を有さないと考えるべからず
┗ニヒリズム、虚無主義に陥る
真俗二諦、二つのものの見方から同時に世界を知るべし
相対的な真実の立場:あらゆるものは空
世俗的な真実の立場:さまざまな物はすべて存在しかけがえなく大切である
この智慧の理解を、中絶論争や幹細胞の倫理問題に導入できないか
相対的な真実の立場:生命は一連の生物学的プロセスの変遷にすぎない
世俗的な真実の立場:生命は深遠にして道徳的な重要性を有する
智慧は、これらの両方の見方を尊重するのだ
つまり、「科学的」という偏向に過ぎることもなく、「庶民の生活世界的」な不合理に迎合しすぎることもなく、どこかにかっちり線を引くこともなく、常に、常に、中庸を目指して、対応し続ける。
『遺伝医療とこころのケア 臨床心理士として』 玉井真理子 著 日本放送出版協会 (2006/12) p.76
わたしの尊敬するある先生から、現代社会における生命の意味を考えるということは、背負っている重い荷物を腰をかがめてもう一度背負い直すことだ、と教えていただいたことがある。出生前診断の現場に身をおくものとして、今しなければならないのは、荷物の重さを感じる感受性を失わないことと、腰をかがめることをいとわないことかもしれない。
2007/06 『 遺伝医療とこころのケア:先駆者と当事者の声 』
なにより、「庶民の生活世界的な価値観」は、進化心理学的に見ても文化と心理の関係から見ても、ヒトと環境の相互作用の中で、なんらかの確実なメリットを持ち得ているからこそ成り立っている。そのメリットをしかと把握せぬままに、医療側、施策側、科学側の都合が逆撫でに来るからややこしくなる。人の道たる中道をはずしているから、問題が発生する。

では、仏道の「中道 ちゅうどう」をもってして行う生命倫理の実践とは、実際にはどのようなものになるのか。
ここで、仏教王国のタイに登場願いましょう。
■ピニット・ラタナクル「タイにおける生命倫理 仏教の見地から」 大意:
タイ国民の98%は仏教徒であり、タイにおける生命倫理問題の議論では、仏教の教えを念頭に置かざるをえないのです。
タイにおける倫理規範は、仏教道徳の基本三原則に基づくものです。
生命の尊重、慈悲の心、相互依存の心
仏教的見地からすると、自殺の幇助や慈悲殺人・安楽死は、命の尊さを冒すことであり、ありえません。
患者の苦しみは、過去の悪い業(カルマ)の所為なのであり、業の発露を無理に妨げることは、その人の未来に苦しみを先送りするだけなのです。
患者さんが植物状態になった場合は、本人は自発的に業を解消し生を向上させることができないわけで、理屈の上では「命を終わらせてあげる」という取りなし方が奨励される傾向にあります。とはいえ、実際にはどちらかというと、ご家族は「患者の心の中で起こっていることが、はっきりとはわからない」ゆえに、命を維持する方を選びがちではあります。
苦難も、幸福も、単独で発生するものではなく、何かの縁のような関係性・つながりの中で、確実に因果関係を持って発生してくるものである。この点は、 素朴概念的には否定できても、科学や仏道の観点からすれば、絶対否定しようのない現実だ。
その否定しようがない「関係性の中に立ち現れる現実」と、社会性動物であるヒト心理が備え持つ性質を鑑みて、「中道 ちゅうどう」を模索すると、そこにはかなり「仏道」に近いものが構想しえるのだ。
で、その『「仏道」に近いものが構想しえるのだ』という話をわかってもらうためには、『でも日本の仏道は自分が言う仏道とはちゃいますから、そこ間違わんといてぇな』ということを言っておきたく、昨日
という話を置いたんだよ。

機会があったら、この『仏教と生命倫理の架け橋』という本はチェックしておいてみて欲しいな。この本、内容の良さのわりには、かなり不遇を囲っているというか、どうもレア本らしくてね、国内の大学の蔵書を検索しても、収蔵しているところがほかの生命倫理本に比べてめちゃ少ないねん。自分はたまたま北星大学まで出向いて借りることができたけど。
しかし、タイかっこいーよ、タイ。
とにかく、自分的には、西欧での倫理論争よりはるかに、仏道の倫理観は心理学面含め科学的かつ論理的でしっくりくるし、このしっくりくる論争が、カミ教国である日本ではほとんどなされていないという情けなさにげっそりくる。

はい、ここで息抜きにおちゃらけ「死後観わっしょいマンガ」をどうぞ。
たぶん気まぐれな短期間だけの公開。
溜飲が下がるか、嫌悪感を催すかは、閲覧者におまかせします。
(リンク先は消えました)

もうちょっと「かっこいいよ、タイの生命倫理」についてご紹介。
■ピニット・ラタナクル「タイにおける生命倫理 仏教の見地から」 大意:
p78
必要とする人を助けるために自分の内臓を提供することは、タイの仏教では徳を積む非常に尊い行為です。
p79
しかし、脳死臓器移植に関しては問題が山積みです。
死の定義の不自然さ、分配上の公正さの問題、関係者の心理面の問題などもありますが、そもそも「臨終の精神的重要性、また、安らかな死を迎えるための特別の配慮がとても大切だとする仏教の教えとは、相反する」。
つまり、自宅ではなく集中治療室でがっつり機械につながれて、「死んだか!?手配しろ!家族の了解は!?よし摘出するぞ!バタバタバタッ!!!」てぇな臨終のシーンは、ヒトの最期としてはあんまりですよと。クオリティ・オブ・デスを足蹴にする行為に該当してしまうわけで。
「生死の質 クオリティ・オブ・デス」については、昨日紹介した言説でも”日本人の「死の質 クオリティ・オブ・デス」は低いのではないか”的な話になっていたわけなんだけれども。
仏道は、この世でのあり方と、この世からの去り方を大事にする。
そして、その価値の置き方は、ヒトのありようから確実に「苦」を減らす方向に作用する。
そこからすると、脳死臓器移植をどうしても施策としてやりたいのであれば、脳死臓器移植の現場で、行いの意義を屹立させるための、医療関係者による、もしくは専門職の、「おくりびと」作業を成り立たせることを、厳に考えるべきかもしれない。
まあ、「考えるべきではない」のかもしれないけどね。どうも脳死移植に関しては、どう体裁を整えても「体の良いソイレントグリーンになるだけなんじゃないか」という懸念がぬぐえない構図の問題だし。
それとね。
上はタイのお国が頑張って回答を出している仏道的な見解なんだけれども、これを、日本の仏道と比較考察する作業も、やると面白いと思うよ。
とっかかりになる材料は↓においてあるから。
┗この場合は「死刑」や「裁判員制度」に関するアンケート結果なんだけれど、ぜひ誰か「生命倫理」に関しても、アンケートをとってみて欲しいな。
日本の、輪廻観を欠いた日本式の仏教では、どのような答を出すハメになるのか。それは論理的にどうなのか。ぜひ。

仏道の本質は、科学の論理と親和性が高い。
■マルコムD.エッケル「智慧と慈悲 一 生命倫理の基本的課題に関するキリスト教と仏教の洞察」p27-28
中道思想を慈悲として現世で顕現させるには3つの要素が必要となる
●十分に効果的行動でなければならない(effective action)
●縁起的に現れなければならない(dependent arising)
┗因果関係のおよぶすべての行動や行為を、全体の縁起の中で考慮せねばならない
●分析を必要としない状態で満足できるものであるべし(satisfaction without analysis)
「いくら分析の上に分析を重ねても、最終的な結論が出せない。しかし、分析が尽き、分析を必要としない状態が生じたとき、初めて我々は細やかに心を配る智慧の面から、慈悲の働きに移っていくのです。つまり、何にもはからう必要もなく、何も計算する必要もなく、ただ単に我々が手を取り合って世界をともにしたときに、Heart to Heart、心から心へ伝わる、以心伝心の深い慈愛の世界が生まれてくるのです。」
生物として備わるシステムは、どのような条件下に置かれれば最も「苦」が少なくなるのか、そしてそれは、どう他者の「苦」と折り合いをつけるのが最善なのか。
中道を旨として生を全うするならば、しかと沿うことができるはずなのだ。
何に偏ることもなく、執着することもなく、感情的な納まりどころに自然に納まる相を待つ。
そして、そこに「慈悲心」の強調が加われば、相対主義の奈落に墜ちることもなく、持続可能性の高い道をゲットしていけるだろう。
■ピニット・ラタナクル「タイにおける生命倫理 仏教の見地から」p77
「人とその他の衆生が根を同じくするという意識は、転生の教えによって強調されています。この教えによれば、人とその他の衆生の存在は、果てしない輪廻転生の中でお互いに置き変わりうるのです。」
「共感能力」あってこその、ホモサピエンス脳内の幸福回路。
共感醸成アーキテクチャ(もしくはプラットフォーム)として効果的な、転生観とその設定。
なんつったって、相対主義の奈落に墜ちた慈悲心欠乏症の自分だからこそ、そう思う。
■鍋島直樹「仏教と生命倫理 創と想」p60
「日本の生命倫理の多くの意見は、欧米の生命倫理の見方を導入しているものがほとんどだ」
ろくたら倫理や文化規範やおのれの寄って立つ立場について考えたこともないようなふやけた輩が、「おお、偉い科学者というものは、問題の解決を説く立派な姿を無知な一般人に対して見せてやらねばならないのだな」と泥縄に欧米の論争をまんま鵜呑みに一夜づけした体の、なんも根をわかってないようなお笑いぐさ論考をしらっと公開していたりするもんな。
その皮相さは生命倫理のみならず、心理学の現場においても如実にあらわれており。
ほかにも、 田舎者ドーキンスの物言い を無批判に真に受けるあまりに、宗教に対する無知偏見丸出しでふんぞり返っている学徒とかさ。
科学上の倫理の規範として仏道を参照することは、西欧の規範よりも進化学的にまっとうな要素が強いと思える。
だからこそ、仏道を(日本の仏道とごっちゃにせずに)見ておいて欲しい。
ほかにも、なんぼか「仏教と科学の関係を考えました」系の本に目を通したけれど、今回の本が一番まっとうさが濃かったと思う。
次回は、別の本を元に、イスラム処世術のまっとうさについてもご紹介する予定。
・・・でも仕事の関係でちょっと先になるかもしれない。orz

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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