
さて以下、↓の本などを見る限り、むかしかじった原始仏教についての理解内容で、さほど問題はなさそうに感じるので、時間もないし、気ままに突っ走ってみますが。気ままに突っ走りたいときに、こう、キャラ対談を装ってみたくなっちゃう今日このごろ。『ブータン仏教から見た日本仏教』
今枝由郎著
日本放送出版協会 NHK出版 (2005/6/30)

●ブータンのチベット仏教
*06 p64 *01 p85 *05 p49,230
チベット文化圏に存在した仏教を国教とする独立国家のうち、今や残るのはわずかにブータン一国のみ。ブータンは、チベット系仏教の最後の砦なのだ。
ブータン人の75%は、生まれながらの仏教徒。残り25%の大半は、南部に住みネパール語を話すヒンドゥー教徒さんたちになる。
ブータンの国教とされているのは、チベット仏教の中のドゥック派。
でも、ブータン国内でいちばん信者が多いのは、古派と呼ばれるニンマ派。
ブータンの国直轄の僧院に在籍する僧侶の数は、約五千名。僧侶は国家が扶養する一種の国家公務員なのである。
男性人口の2%近くが僧籍にあり、戒律を守って妻帯はせず、寺院での共同生活を営んでいる。
この点(最後の砦状態)については、後日紹介する誰かさんが天にツバしていた「正しい言説が広がるとは限らない」という物言いに対していい味を出してくる。というか、「正しい言説が広がるとは限らない」という物言いは、ものすごいずるくも使える、たちの悪い「正論」だよな。
【無記】
●ブッダ
*01 p97
ブッダは物事を極めて論理的に考える人だった。
死後の世界、霊魂の有無など、確かめようのない想定については断固として応じず沈黙を守り、それは「無記」として伝えられている。
この点は重要っしょや。中高生の頃に原始仏教についての本を読んで、「これはなんと正しく科学的な態度であることか!」と感銘したしー。しかし、なぜブッダ先生が原点においてああであられるのに、日本の仏門や衆生はフツーに地獄だの霊魂だの戒名だのと想定して舞い踊っているのか、以来さっぱりワケワカメでのー。
原始仏教の発祥当時の世界では、死生観が輪廻として把握されている世界だった。仏教より先に、輪廻ありき。その世界において、論理的に哲学を突き詰めたブッダは、流布の方便として、輪廻世界観の プラットフォームが アーキテクチャ に入り込むことを黙認した。
●アーキテクチャとしての輪廻
*01 p97
輪廻を前提として、凡夫が良い境遇に生まれ変われるよう戒を守り、功徳をつんで僧を支える仕様は、現世をよりよく生きる、というブッダの教えと矛盾しない。
化身と呼ばれる高僧は、おのれの解脱を敢えてさしおいてまでしても、凡夫を救う菩薩行や利他行に励むために現世に身を落として来て下さっている。
最高に利他的な尊い存在(であるべきことを自覚し、理想の ミメーシスを体現する役目を負う人々)を養成する専門機関が、寺という制度なんですね!ダライ・ラマや、ブータン国王は、その ミメーシスを実際に生き抜くという大役を遂行しているわけだ。
ブッダは「葛藤の少ない方向」に人々を確実に動員する方策を突き詰めた人である。人心を動員するには、なんらかのインセンティブが必要である。進化心理学的に言っても、諸般の事情で夢見てしまう「理想」という仮相(けそう)に踊らされている人心は、情けないほどぐだぐだに理想からはほど遠いしろものだ。
そんなゆるキャラであるヒト心理のありようと、現実の容赦ない宿命の過酷さは、輪廻という「確かめようのない想定」を取り込むことによって、適宜矛盾点を解消していける上に、人心に対して適切なインセンティブ(意欲の喚起)をも設定できるようになる。文化人類学的に言えば、一種の マナ ポイントみたいなもんかな? たいがいの理屈の矛盾は、そのスーパーな仮想設定に突っ込んで全部しわ伸ばしできるってな便利な「想定」だ。
ただし、肝心なのは、おそらくブッダ先生は、輪廻を信じずに、基本「無記」で応じていなさったということだろう。
持続可能性も人心の幸福度も高く保持でき、うまく物事が回る効果が得られるのであれば、仮想であろうがそこは是とも非とも示す必要はない。もとよりヒト社会と人心は、 マナ ポイントがあってこそ、うまく回るようにできている。
矛盾解消点やスーパーな仮想想定がなければ、うまく回らなくなるような粗忽な仕様にできあがっているのが、進化的経緯を引きずるこれら哀れなヒト心。人心に、幸あれ。

【輪廻を無視した日本の仏教】
ヨソのお国の仏教徒に、「日本じゃフツーに13回忌とか法要をやってるよ、いつまでも弔ってるよ」とか言うと腰を抜かされることがあるんですよ。「その故人はどんなひどい悪業を抱えているんですか!? 仏教徒でありながら、そんなに長いこと生まれ変われずにいるのは異常だ!!」てなことになる。●輪廻を無視した日本の仏教
*06 p90
回忌法要を行う”仏教”は日本だけ。
そうだよね。日本には輪廻の世界観を想像できない仏教徒さんがけっこういらっしゃるよね。例えば、「乳幼児が死んでも墓を作る必要はない」「水子供養は不必要」という主張にギョッとなさるようであれば、そのような方はまずこちらをお読みになっておいて下さい。
┗北海道で発生した悲惨な国際結婚殺人事件。そこからかいま見える輪廻信仰の世界観。
●ブータン(チベット仏教圏)における葬送
*01 p143
死者は死後49日たてば、なんらかの形で輪廻転生してこの世に生を受け、戻ってくる。
死者の供養は無意味。49日までは「少しでも良い転生を」と頑張って祈るけれど、それ以降は死者の霊をなぐさめる必要はない。
遺体は、火葬したのち遺灰を山中の聖地などにまくことが多い。それきりであり、執着はしない。死者はこの世のどこかに生き返って新たな一歩を踏み出しているのだ。
ブッダは、死後の世界、霊魂の有無など、確かめようのない想定については断固として応じず沈黙を守った。「ないもの」に執着するような「非論理的」な人心の弊害を解消する マナ ポイントとして、消失点として、アセンブリ・ポイントとして、「転生したからもういいんだ」「別なものに変化したんだ」という想定は、たいへん有用なのだ。しかも、平和と幸福度、そして共感能力のアップにもストレートに効果的ときたもんだ。敢えて「無記」のスタンスを取りながらも、従前からご当地に存在した転生観のプラス面をフルに活用したのが、ブッダが成立を許した原始仏教なる体系ではなかったのか。
ところが、その仏教が日本に入ってくると、輪廻転生の想定は捨て去られ、おもきし「日本土着のカミ信仰におもねる」仕様に改変されてしまうのだ。
そのおかげで、日本人が「仏教」とみなしているナニカは、世界の人が仏教とみなしているものとはかけ離れていたりする。
日本人は、これだけたくさん寺がある国でありながら、実は仏教に縁遠い妙な国だったりしているのだ。
... 以下つづき...

●神道化した異様さいっぱいの日本の仏教
*03 p104
日本仏教は、仏教の長い歴史、広い伝播の中で孤立した存在だといえる。
日本の仏教は”カミ教”と呼んでもいいだろう。
*06 p134,215
多くの面で本来の仏教とは本質的に違ったものになっている。
僧侶はあたりまえに妻帯しまくるわ、寺を身内で世襲していくわ、日本”仏教”固有の異端的特殊事情がてんこもり。
*01 p143
輪廻転生を想定するどころか、現在の日本の仏教は、先祖供養と墓の維持によって成り立つ。
生まれ変わるどころか、延々49年ナマゴロシの末に、やっと浄化されても解脱や転生じゃなく祖霊に昇華していくなんてな、こりゃおもっきし仏教じゃなく神道になっちゃってますよね。
もとより「輪廻転生」の想定は、ブッダ的には「無記」でスルー扱いの土着の世界観を、共同体の維持に効果的なものとして取り入れたものだった。が、仏教を導入した日本では、たぶん中国南部由来の死霊観か太陽信仰なんか、チベットやインドとは違った世界観が幅を効かせていた都合があったんだろう、日本独自の各々の宗派の開祖は、ブッダが許したアーキテクチャとは異なる設定を大胆にドンドコ「発明」してしまった。
その「発明」はたぶんに”カミ教”的な様相を帯びてくる。
生まれ変わらない「一回性の死」だの「浄霊」「祖霊」「家墓」だの。
*03 p104
人生は本質的に”一回性”のものだとする日本人の観念は、仏教の立場からすれば、まさに異端以外の何者でもない。故人の位牌を奉り、先祖代々之墓を建てるなど、仏教では本質的にありえないことなのだ。
で、日本人は、それらの想定を”仏教”だと信じていたりするよね。いや全員がそうだとは言わないけれど、そういう「ヨソにはない独特な想定」がフツーに受け入れられすぎてたりする。
さらには、日本の仏教徒は、ヨソサマの文化の仏教徒とは違って、なぜかブッダの教えを理解せずに信仰している事例が大杉であるらしい。*06 p97
日本仏教の最大の悲劇・欠点は、日本語訳大蔵経をもたないことである。
言葉の意味もわからずに、ただ漢字の音と字面だけをありがたがってきたために、仏教理解が論理的なものではなく、感性的な次元に留まってしまっている。
日本人は「仏」が何であるかもわからぬまま、千数百年にわたって、ただ情緒的に「仏」を信仰してきたのだ。
うわー。知らぬが仏って、これのことですか!?こんなだからこそ、フツーに日本は輪廻転生の設定抜きでやってられるわけなのかな。
はっきり言ってさ。自分的には、輪廻転生の想定を堅持している異国の仏教と、日本の神道化した仏教は、「キリスト教」と「イスラム教」くらいに「呼称を変えておいてくれないか」と思うんだが。だいたい、輪廻仏教と日本の仏教を比較して、「日本の仏教は間違っている」という人は_少ない_と思うんだ。どっちがどっちを正統ともつぶしにかかるともするわけではないわけで、見たところ、おおかたは「日本の”仏教”はベツモノの仏教なのであって、それはそれでOKだよ。でも、輪廻する仏教というものも知っておいてね」というスタンスで落ち着いているらしい。
そりゃまた、仏道的に穏便ですねー。*06 p104
日本国内の各宗派は、自宗だけで事足れり主義に陥っている。
自らの宗派の開祖は崇めるが、仏教の歴史上の開祖ブッダ・シャーキャ・ムニ・ゴータマは崇めない。宗派間の交流さえ成立していないのだ。
わはは「自宗だけで事足れり主義!」それって仏道???
こないだのアンケート結果もすごかったですよね。
まあ、そんな状態であるならば、はた目にも内容的にもマジ「キリスト教」と「イスラム教」くらいに輪廻仏教と日本の仏教は路線は違っていると思うんで、「仏教といえば全部こんなだろ」みたいな国際的にもめんどうな誤解を招かないためにも、「仏教」じゃなく「日蓮_教_」とか「浄土_教_」とか、「仏教の宗派」じゃないナニカになっちゃっておいてくれないかな、などと思ってしまう。例えばこんな問題:葬式仏教
「死んでから坊さんを呼んでも手遅れだろう」という笑い話はなかったっけか。
例えばこんな問題:墓や戒名というありえない収入源
日本だけらしいよ、信者の死で商売をする仏教は
例えばこんな問題:妻子を粗大ゴミ扱い
例えばこんな問題:癒しを忘れた仏門
こないだ紹介した本の値段見た?w
例えばこんな問題:せんとくん!!!
ぱっと見、釈尊が低級霊に憑依されたか畜生道に落ちたかしているようにしか見えない

さらには、科学的にも論理的でありアーキテクチャとして有用な設定である「輪廻転生」の想定を失ったことが原因になっているのかもしれないけれど、外部から、なぜ日本の死生観はそんなに低劣化しているのかと、いぶかられるようなありさまになっている。●日本の生死観
*01 p178
日本人の「死の質 クオリティ・オブ・デス」は低いのではないか。
自分の命を大切に思えないから、自分を殺し、他人も殺す。自殺と他殺というのは、本質的にはまったく同じことです。自分を尊敬できない、自分を大切に思えないから、自分の命も簡単に捨てられるし、他の人の命もうばえるのでしょう。
*01 p180
役に立たないものは排除したほうがいい、という考えかたが社会にある。
それが絶望のなかで、自殺と他殺の相関関係を生みだしているのではないか。
まあ、ここで自殺数と他殺数は相関するのかという点はダウトなんだけれども、「社会不安」という観点からすれば、確かに「社会不安」と自殺数は相関する可能性はある。
そのあたり、前に記したこの話がつながってきますね。┗「生きとし生けるものすべてが、自分にとって大事な誰かである、という想定」は実はものすごいことなのだ
●ブータン仏教における帰属規範
*01 p146,p210
「まず、仏・法・僧のために祈ります。そして、自分のためだけに祈るのではなく、生きとし生けるものすべてのために祈ります」
ブータンでは、自分のために祈っている、という人はいなかった。誰に尋ねても、他の人のため、世の中のため、生きとし生けるものすべてのために祈っている。
そうか。日本では、自分のために祈っている人が、問題を起こしているのかもね。
悪いが、日本の仏門には、自分は良い印象を持っていない。なんせ、身内がすごかったもんでね。
「あなた、創価学会に入りなさい! キリスト教なんてダメよ、絶対儲からないから!!」と勧誘の電話しまくってたオバンとか、既婚の日蓮宗の坊さんと不倫始めたオバンは、信者でもない人を施餓鬼会に誘っておきながら断られると「そんな他力本願でどうするの!」とか罵るわで(意味不明)、もーあんな理屈スープレックスな世界は金輪際ごめんこうむるかんじだ。おぞけが走る。
たぶん、彼ら迷惑信者たちは、彼らなりに「他の人のため、世の中のため、生きとし生けるものすべてのために」行動しているんだろう。でもなんかちがう。 ミメーシスがない。高みを目指す香りがしてこない。人間関係の向上を指南されているとは思えない。
言っておくが、これは信者がいけないんじゃなくて、信徒のメンヘルを悪い方向に放置するような宗教がいけないんだと思うぞ。いまどき人心の掌握と管理がその程度のレベルでどないするっちゅうねや。
(※ ↑このくだりは、一部の読み手さんが当方のことを「信者だろ」「非科学的な宗教のシンパだろ」とみなしていらっしゃるようなので、その勘違いを祓う目的で記しております)
●幸福の基準は、人間関係であるとこころえよ
*03 p240
個人主義的に一人一人が富とか財産の蓄積に腐心するようになる生き方は、仏教が説く無執着の教えとは、相容れないことではないか?
*01 p196
ブータンは経済発展を放棄したわけではない。
国の成長を経済的成長だけで見ることに、疑問を呈しているのだ。
*06 p184
ものごとを心ではなく「経済面」だけで測る「国内総生産」は、幸福を計る尺度としては最悪である 〜リチャード・ラヤード神父
*01 p188
ブータンの行動規範は、日本にも見られる関係重視型の文化であり、関係の改善を図らない進歩は、まちがった進歩であるとみなしている。
金や物、人権、自由、食べ物がある、などの、全体性を欠く個別の指標で社会の進歩を測るのは、レベルが低い進歩観だ。
つながりのなかにある個人が幸福であることが、はっきり見えるような進歩をなすべきだ。
仏教が高く掲げる「縁起」という概念が、従来の西欧主導型モデルを超えるものとして、強く位置づけられる。
「縁起」と「輪廻転生」は科学的にも有効な形で、変換させることは可能だ。┗みんなフツーに科学的にも輪廻転生しているよという話
西欧的科学観は、「自意識」という「仮相」に妄執しすぎて現実を捉え損なっている。
「自意識」を雲散させてしまえば、いかに輪廻の縁起があたりまえに科学的かが見えてくると思うのだが。

まだあと、仏教系の生命倫理研究、イスラム教の倫理規範とキリスト教系科学観の話を並べ、ヴィックラーの『十戒の生物学』に還元させる形で話を続けていきます。その過程で、重複もありいのだめ押しもありいのの、もう少しうざく詳しく書いていけるかと思います。*06 p194
坊さん側に改革の意図がなく、仏教の存在意義を信者に納得させることができなければ、坊主、仏教には意味がないのであり、早晩消滅するのが一番自然である

なお、当方は基本的にSF屋(シミュレイティブ・フィクション屋)側に居る者です。科学者ではない。正確な論理を突き詰め業界内の地位を固めてなんぼ的な学究者のありようをよしとするのではなく、このシチュエーションでこんな材料を元にすると、このような図像が描けるのが面白いんでないかい、という、編み手やずらし屋のスタンスです。
「材料を並べ替えるとこんなファビュレーション(寓話)が作れるよ」これは、基本的に開祖の語りに通じる物があると見做して作業しています。
宗教の成り立ちの解読も、当時の状況下で、ある程度特定の関係性を維持しうる説得力のありそうなアーキテクチャを成り立たせるゲームを進めるにはどう構想すればよいか、的な、構想する側:編み手の視点から見ることになります。
【追記】なんか外野がうざくなってきたので冒頭においた文章を念押しに追記:
『こんな調子で順々に、イスラムや日本以外の仏道、日本の仏教音痴などとの対比を準備したのち、そこらの科学かぶれさんにありがちな西洋ローカル妄念耽溺に対して、「科学的な」デコピンとアッカンベーをかましたろという企図の元の、下ごしらえです。』
「宗教、信仰の科学」情報集積庫ブータンと日本を比較することが主眼ではない。宗教に対する偏見ひどすぎの科学学徒がいるもんで、それに対する異議申し立ての準備材料の一つとして恣意的に置いたものだ。

※*06
今回の参考書籍の中の一つ。『ブータン仏教から見た日本仏教』
今枝由郎著 日本放送出版協会 NHK出版 (2005/6/30)
[ Amazon ] [bk1]
ほかの書籍については、一つ前のエントリ

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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