読書の秋
読書の秋
。今回はこちら2冊の取り合わせ。

『「死体」が語る中国文化』 樋泉克夫著 新潮選書 新潮社 (2008/06)
『外から見た〈日本文化〉』 星野 勉編 法政大学出版局 (2008/03)


『「死体」が語る中国文化』
樋泉克夫著
新潮選書 新潮社 (2008/06)
>中国人の「遺体」への異様なまでのこだわりから、その特異な死生観を解き明かす!
「現代の」中国で観察される、外部から見て珍奇な(当事者的には真剣な)葬送習俗のあれこれをご紹介。
●風水的に最適だからと、町のど真ん中の公園に、無断で人間のお墓を作る人々。
●キョンシーの由来は、夜間に死体を立てたまま運ぶ稼業があったゆえ。
●葬式はドハデにしてあげるのが親族死者に対する礼儀。巨額の葬式代金が用意できる日まで、延々放置される死体たち。(金の工面が付かないまま永遠に放置される可能性大)
●古来から延々伝わる魂魄二魂観のご紹介。(でも10個ではなく2個どまりでのご紹介
●かといって、死後の世界は全然古色蒼然とはしていない。「あの世専用のクレジットカード」も存在する豪華金満かつ超現代的な死後の世界観。
●彼ら的には、まず金がなければ祖先を敬うことはかなわない。金儲けで成功することこそが、祖先崇拝とイコールになっている。
などなど・・・
本書は、著者の見聞き範囲での好き勝手なレポート風になっていて、権威ブリッコもないし、肩の力を抜いて面白く拝読できる。とりあえず、お堅い研究報告のたぐいでは全然ない。
厳密な検証もなし、「冥婚」の話も出てこなかったと思うし、オモシロ見聞録と思えばOK。
※ 「冥婚(めいこん)」とは:

で、これをもってして「なんと旧弊かつ頭の悪い人々か」と一蹴するのは、まちがい。
例えばアフリカの人に言わせれば、今の日本人だって「なんと旧弊かつ頭の悪い人々か」呼ばわりされる可能性大なのだ。
... 以下つづき...

【「外から見た〈日本文化〉」のアフリカ幽霊譚】

『外から見た〈日本文化〉』
星野 勉編
法政大学出版局 (2008/03)
横山泰子「第4章 日本の妖怪とアジアの妖怪」
横山泰子「第4章 日本の妖怪とアジアの妖怪」p.84
米国の人類学者,ローラ・ボハナンは,調査のためにアフリカにフィールドワークに赴いたときの体験を,「アフリカ奥地でのシェークスピア」で書いている。彼女はシェークスピアの『ハムレット』を一冊持っていっており,調査中,ことあるごとに読んでいた。すると,彼女を受け入れた部族の長老たちに,「あなたはいつも本を読んでいるが,何を読んでいるのか。私たちにも教えてくれ」と言われ,『ハムレット』を翻訳して伝えてみようとしたが,困難にぶち当たった。部族の人々は幽霊という概念を持たなかったので,『ハムレット』の中の幽霊が出てくる場面を理解できず,幽霊の説明だけでも大変だった。結局,その部分を飛ばし,彼らが理解するように『ハムレット』を聞かせていった。彼らの質問に答え,彼らの興味に即したかたちで『ハムレット』を説明するうち,その物語は『ハムレット』とは全く別物になってしまったという。
「アフリカ奥地でのシェークスピア」を読むと,幽霊という概念をもたない社会の人たちに幽霊が登場する文学作品を翻訳するのがいかに大変であるか,あらためて考えさせられる。
これ、「アフリカ」と大きすぎる枠で勝手にくくってしまっていて、実際にはどちらの部族さんのことなのかを明示していないところがちょっと失礼かなーーーぁ と思うけれど(「関西人」のことを「東アジア人」と言うようなもんだ)、それはともかく。
日本でよく観察される想定や観念に、次のようなものがある。
「早く見つけてやらないと、海の底で寒い思いをしているだろうに」
「彼の遺骨は、故国に帰れる日を心待ちにしていると思います」
「遺体を傷つけるなんて、かわいそうではありませんか!」
「裁判には遺影を持っていって故人にも見てもらいます」 云々。
これらのセリフは「アフリカの人」には(欧米人にも)けっこーわかりづらかったりする。日本人は多くの人が無宗教ぶっていてあまり自覚なされていないのだけれども、これらのセリフに見える想定がそも、おもきし信仰の発露にほかならない(組織宗教ではなく土着宗教の影響を受けている)。でもってこれ、一皮剥けば、けっこう中国由来の霊魂観をたっぷりはらんでいたりするわけなのだけれども。
幽霊の観念(死後の存在)がない文化を想像できますか。
実際問題、想像しきれるもんでしょうか?
そもそも日本人が軽々に口にしやすい「冥福(めいふく)を祈る」というセリフからして、よそさまからしてみれば「なにそれ」的な「旧弊で無知蒙昧な慣習」に見えうるのだし。(ていうか、異文化の人の死に対して軽々に死後の冥福を祈ったりなさらないようどうぞ)
きょうび流行りの「千の風」のコンセプトにしても、もちろんワケワカメな「遅れた習俗」と見做される可能性がある。
幽霊の観念(死後観)がない文化には、科学の世界が含まれていたりしませんか。
さても、バカとハサミと死後の世界は使いよう。
心理的ストレスの解消点として、救済に必要なものとして、死後の世界は_この世に_現存する。
ヒトはそれぞれの文化で、心の落ち着けようの水路を、因果や世界観の物語りをインストールされて育ってくる。
その水路を無視した科学の押しつけは、水路を詰まらせて不安の解消のすべを攪乱させるだけだ。
自分にしても、「死んだら深い海の底の貝になりたい」と言っていた 戦犯裁判帰りのじいちゃんが、今も海の底にいるような気がして、もしくは墓石の下にいるような気がして、それがどうしてもぬぐえない。
解決がつかず、人の心の中にたごまる思い。そんな死後。

今週、こんな新刊が出ていた。
『お浄土があってよかったね 医者は坊主でもあれ』 宮崎 幸枝著 樹心社 (2008/10)
自分的にはこの表題に見えるアプローチは好感度高め。近いうちにちょっと見てみよう。

【以下追記:】引用部分で言及されている
ローラ・ボハナン「アフリカ奥地でのシェークスピア」
は、
大修館書店『アフリカの文化と言語』1974年
に収録されているらしい。30年以上前の本では、入手は無理かなぁ・・・と思いきや、札幌の図書館にあるではないか! 借りてこよう。


![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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