そのチャンネルを共有している誰かがいないと、ピンチのときに救われない。
不幸と不安が増えているのは、共有チャンネルが壊れた社会になったからか。


『巡礼の文化人類学的研究 四国遍路の接待文化』 浅川泰宏 著 古今書院 (2008/03) [ Amazon ] [bk1]
『祈りの研究 現世利益の実現』 中村雅彦 著 東洋経済新報社 (2008/7/11) [ Amazon ] [bk1]
今回は、どちらも(四国の)信仰世界に関わる深みに触れることができる貴重な2冊をご紹介。

まずは一冊目。

『巡礼の文化人類学的研究 四国遍路の接待文化』 浅川泰宏 著 古今書院 (2008/03)
まー、自分としては「お遍路(へんろ)」といえばまっさきに 「キャンパス・クロッキー」が脳内妄想されるわけですが(小陳恋次郎 ochinkoijirou!
)、それはそれとして。この本では、遍路をする者、遍路をされる者、遍路を利用する者、それぞれがどのような物語の中で遍路をとらえているか、問題含めた位相が鮮やかに描かれる。日本に限らない研究枠では「日常性に着目する巡礼研究」にくくられるものであるらしい。
序章: 研究の目的と方法
第1章: 巡礼研究の展開と課題
第2章: 四国遍路の歴史的変容 民衆参加型巡礼システムの確立と変遷
第3章: 巡礼空間の認識論的再考 四国遍路の歴史人類学的考察から
第4章: まなざしの構築学 正統性・境界性・異質性
第5章: 四国遍路のターミノロジー 接待の実践とヘンドの解釈学
第6章: 響振する苦しみ ある女性遍路にみる<救い>の構築プロセス
結 論: 四国遍路の日常的実践としての接待
伝説の変容や「遍路宿」の苦労、”客死遍路”の特殊な戒名の話など、味わい深い章が目白押し。
物語屋の自分としては、後半の
第5章: 四国遍路のターミノロジー 接待の実践とヘンドの解釈学
第6章: 響振する苦しみ ある女性遍路にみる<救い>の構築プロセス
が、あまりにリアルでイチオシ。
... 以下つづき...

一口にお遍路さんと言ってもいろいろある。本来ならば、古式ゆかしく最小限の伝統装束&装備で延々徒歩めぐりをするお遍路さんが主流であるべきなのだろうけれど、いまやそれは少数派。観光バスで大挙速攻めぐりなさる集団だの、ハイヤーお大臣だの、マイカー組だの、観光同然修行以前の「巡りゃいい」派の人々。もしくは煩悩満載の荷車を押して漂泊ホームレス人生を満喫する「お接待」目当ての遍路文化寄生者もいたりする。
追記:ツボを踏まえた記述と豊富な写真のページを見かけたのでご紹介。
四国へんろ賛歌!
お遍路コースの地に住まう地元の人々は、これら次々に巡り来る巡礼さんたちを、大きく2種類に分類なさっているのだそうな。
正当かつ高邁な巡礼者と、コツジキなみに格が落ちる聖性を欠いた巡礼者。この2種類。その対比は「ヘンロ(高格)」と「ヘンド(劣格)」と区別されたり、「オシコクサン(高格)」と「ヘンロ(劣格)」だったり、地域によって呼称はまちまち。
高格のお遍路さんは、地元の人が相互扶助として期待するところの聖なるお勤め(お返し)を果たしてくれる良い人々。接待(無料の食事や宿の世話)を受けたら、お札(ふだ:納札)をくれたりお祈り(読経)をしてくれたりする、巡礼者のあるべき姿。
劣格の「ヘンド」は、「物乞いみたいな汚い格好」で、地元の親切に接しても「ロクに拝みもしない」「札を持ち合わせていない」「格を満たさない者」として蔑まれる。
そしてこれらの違いは、接待する側が一方的に印象基準で分類していくのであり、遍路する側がどちらに属すると自認しているわけではない。劣格の「ヘンド」に対しては、同じ接待でも「早く追い払うため」に接待が行われることになるなど、地元の側が、まれびとに対して臨機応変というか、状況に応じた「接待側の物語」を構築している。
例えば。
毎年巡ってくる歩き遍路さんと懇意になるが、年を経るにつれその遍路の態度の変化に劣格化を感じ取り、「今度たずねてくるときには札を持ってきてくれ」と頼むが反古にされ、墜ちた遍路として(いつか正しい遍路として立ち直ることを祈りながら)絶縁を言い渡す接待側のおじさんの語り。
接待側のおじさんも、絶縁された遍路おじさんも、どちらも遍路の物語の中にいる。でも「あるべき姿」からのズレは、物語(価値体系)からの失格として厳に引導を渡されることになる。
例えば。
義母からすれば、どう見ても劣格のヘンドでしかない汚い遍路者を、お風呂を世話しいの寝床を世話しいのとありがたく大事に接待した嫁さん、その両者へのインタビュー。かねてより健康面など諸々の悩みに苦しんでいた嫁さんは、接待のご利益でその後はいたって無病息災家族円満、あのお遍路さんが我が家に来て下さったおかげなのですとたいへん感謝する。義母的には、あんなのは遍路なんかじゃなかったのに、という呆れ話になるのだけれども。
義母も嫁さんも遍路の物語の中にいる。しかし、同じ対象を聖性の兆しと見るか否か、そのわずかな違いが、鮮やかな「救われるか否か」の分水嶺を描き出している。
施しをすることによって救われたお嫁さんの語りが、長らく忘れていたものを眼前に突きつけてくれて印象的だった。

思い出してみれば、昔は、
:見るからに汚く垢・ウジ・膿まみれにドロドロな見知らぬ人を、
:哀れに思って懸命に懸命に洗ってあげたところ、
:その正体はたいへんに高潔な聖者さまであって、
:おかげさまで大きな幸せとご利益に恵まれることになりました。
そんな、仏教説話やキリスト教の福音話がふつうにどこか共有されていたような気がする。

困窮しているみすぼらしい者を、敢えて自分の安全を冒してまでも、救いに行くことによって「救い手が救われる」、つまり「自分の心を救うために、見知らぬ人をとてつもない苦労をして助けに行く」という物語が、有効なものとして機能していた。
救う対象はドロドロに汚いほうがいい。実際に相手が聖者でなくてもいい。ネガティブにエンガチョされている者を敢えて救うことで、自分の運命が切り替えられるはず。どこかから、自分に人徳が降り積もるはず。人徳。人徳を持つことの幸せ。
そんな物語じゃなかったかと思う。
手塚治虫の火の鳥なんかにも織り込まれていたんじゃなかったかな。
ひるがえるに、いまどきの「自己責任」物語は 「困窮している者を救いに行くのは損だ」という視野に固まってはいないか。
人徳を積む方向には作用していない。
自分の直近の「損得」だけで延髄反射する。異端者を過度に忌み嫌い、異なる立場の者との和解もなく推移してしまう。
これは単に、世の中万事をHPや経験値などの効率・数値で測る”ゲーム的価値観”で育った世代が増えてきたからなのか、それとも 「国民を、経済的強者や国家権力による市場操作的な統治体制に組み込んでいく」 ・・・人徳より損得勘定がまさる世界に向けて、人々の倫理観は塗り替えられていっているのか。

【祈りの研究 中村雅彦】
そして二冊目。

『祈りの研究 現世利益の実現』 中村雅彦 著 東洋経済新報社 (2008/7/11)
この著者さんは、プロの「拝み屋」さん(霊や呪いを祓う技術者)の資格を持つ大学教授さん。前著 『呪いの研究 拡張する意識と霊性』(2003年)もグッと来る一冊でした。今回のご本『祈りの研究 現世利益の実現』はインタビュー形式になっていて読みやすい。
「拝み屋」とは、四国でいうところの、民間の祈祷師のこと。信仰がどうのというよりは、日常生活上のトラブルや苦難を心的に解決するプロとして重宝されている。その手法は加持祈祷の憑きもの祓いであったり、陰陽道的な呪い返しであったり、いわゆるトランスパーソナルな分野の作業でもある。
実際の修行の経験譚や、その結果の感覚の鋭敏化のようす、祈祷師稼業の危ない裏話(呪詛の渦巻くどろどろした世界)などなど、おいしい話が満載。
注目すべきは、カウンセリングレベルの精神的な問題は、カウンセラーや精神科医などの専門機関を紹介して済ませているということ。「本当に深刻な霊障のケース」のみを請け負っている。
(著者は現在は「拝み屋」の仕事は請けていません:ホームページは 「やほよろづ.COM」。また、「拝み屋」であればすべてこのような適不適の峻別をしているとは限りません、あこぎな「拝み屋」さんも世の中には存在しますので、お気をつけて)
旧来あった意味的に重要なナニカ(ご神木、祠、井戸・・・)を壊したときに、霊障が出やすい。
事業に行き詰まる、家庭内不和、病気、怪我、自殺・・・
それらの悩みを抱えて「なんとかできますか」と依頼しに来る、その依頼者たちの中の、カウンセリングや精神医療の範疇にはあたらない、真性のものだけを、祓う。
この峻別はなんなのか。

かような心的(神的)世界について、分析や解釈はなしてはいけないと思う。無粋だし、台無しだ。
だから、ここにこれから記すのは、あくまで救われないバカヤロウが殴り書く個人的な悪行の与太になる。
拝み屋さんが行う依頼者の峻別は、依頼者の中の物語が、拝み屋の手法の中で”機能”するかどうかの見極めではないかと思う。
ヒトは、周囲から物語(価値体系、意味体系)を摂取して育ってくる。特に、思春期までに摂取された物語(価値体系)は後の人生を支配する世界観に長く影響を及ぼしてくる。
ある意味、これはヒトへの価値体系のインストールと言えるかもしれない。
ひとくちに物語(価値体系、意味体系)と言っても、生きていく上で有利なものもあれば、不利なものもある。長い歴史の中で淘汰されてきた物語(伝統的な世界観)ならば、ヒトの感情機能に絶妙にフィットするように仕上がっていると仮説できるのだが、短期的視野で作られた物語(流行のドラマ、マンガ、ゲーム・・・)が一生ものとしてインストールされるとなると、これはこの先心もとないことこの上ないんでないかい。
※ 先日、「死後の世界」アンケートの回答で、
『自分には行きたい世界がある』
と、特定のゲームの世界のことを延々述べ立てる者がいてびっくらこいたんですが。
「死後の世界=ゲーム界」!?
以前ネタでそういう話を書いたことはあったけれど、マジにそんな奴がいるとは。いまどきはそこまでファンタジーの世界とリアルがごっちゃな厨がフツーだったりするんですか!?
ヒトの脳機能にそぐうように構築されている、長い歴史の中で淘汰されてきた物語(伝統的な世界観)ならば、その脈を使って効率的にヒトの感情を操作することも可能だ。拝み屋やシャーマンが、ヒトを救うことも呪うこともできるのは、確実に共有された世界観あってこそであろうし(気にしない人間には一切効かない)、施術者が、確実に世界観が共有されていて有効である、と確信できる依頼者だけを相手にするのも、じゅうぶんに理解できる。
古来、有効だった意味の経絡(けいらく)が、その依頼者にはインストールされているか否か。霊障に関する価値体系が、血肉にはなっておらずメディアで除霊に憧れただけのレベルのものであれば、施術は正しい効果を発揮しはしないので、カウンセリングや精神医療の窓口を紹介してそちらに行っていただくのが正解。
つまり、伝統的な世界の中での「仲間によって治療してもらえる有効な心的経路を、物語として思春期までにインストールする」。そういう図式を提示したい。

ヒトの感情のツボは、うまく操作すると完全に逆転することができる。
幸・不幸や正邪の逆転は、感情脳をちょいと「ぎょっと」させればいいらしいのだ。
先に挙げた汚いヘンロを接待して救われた嫁さんの場合は、強い感情のハードルに挑戦することによって、自分の中の感情脳のスイッチを入れ替えることに成功した。その成功に至るためには、汚いヘンロに強烈な意味を感じる価値体系と、それに対してどう作用すれば展開するのかの「正しい物語」上の指示がなければいけなかった。
自分の中の物語が見せてくれる解決法に従って、おのれを救った。有効な物語を、適切に選択して自分を救った。
ヒトは、慣れ親しんだ価値体系とは違う世界にほうりだされると、精神的に支障をきたしがちになると報告されている。
価値体系の混乱は、転居や移住のみならず、時代の移り変わりや流行りすたりの激しさによっても引き起こされる。過去を貶め新しきを賞賛する風潮が強くなるほど、旧来の「心のよりどころ/心の治癒手法」は効かなくなっていってしまう。不幸から抜け出すすべを奪われる。
いまどきの不安の増大は、それら「有効な物語」の凋落の結果であろうし、支配層に都合のよい「自己責任」物語が普及した(旧来の物語を駆逐した)結果でもあろう。
支配層に都合のよい「自己責任」物語の普及は、今たまたま過渡期だから不幸を増大させているだけなのだろうか。今後すべての人に「自己責任」物語や打算物語がインストールされれば、将来的にヒトの幸福を増大するのだろうか?
感情を操作するチャンネル。
自分にはどんな感情の経絡がインストールされているのか、省みることはできるか。
ホームレスは「けがらわしく撃ち殺すべきザコゾンビキャラ」に見えるか。
それとも「親切に接すれば自分を救ってくれるかもしれない聖者」に見えるか。
世の中を幸せにするのはどちらか。

┗人徳や自己満足抜きにしても、実際問題コスト計算上、救うほうがトクなのです。

そしてその後、社会心理学がらみで「自己責任」物語や打算物語についてぼやいたひとくさりはこちら。
![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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