●ハム太郎とカボチャの違いは!?
●小学校の動物飼育がヤバイ!?

『現代日本人の動物観 動物とのあやしげな関係』
石田 〓(いしだおさむ)著
ビイング・ネット・プレス (2008/06)
[ Amazon ] [bk1]
●昔、飼い犬の散歩は、もっぱら子供の仕事だった。
今、飼い犬を散歩させているのは女や老人が大半。 この差は何。(p16)
そんな疑問をきっかけに、1991年と2001年に行った「日本人が持つ動物観」の調査を比較してみると・・・。
動物観の中でも、「ペットに対する意識」だけが激変していた。
【「ペットを家族の一員として飼いたい」 35% → 83%】(p18)
わずか10年の間に、国民の8割以上が「ペットは家族!」とみなすようになってしまった!!
調査はペットを飼っていない人も含めた「一般の成人」を対象に行われており、日本で短期間に広くペット観が大転換している様子がうかがえたというわけだ。

●ほかにもいろいろ調査結果の紹介が続きます。
・犬の飼育がやたら増加している
・児童教育のために、という飼育動機が減っている
・番犬、健康増進用、などという実用目的も減少
・癒し求め&室内飼育の激増・・・
●では、家族としてのペットとはどんな位置関係なのか
・対等ではなく下位:子ども、弟妹、孫・・・
・自分が世話をしないとあやうい存在、頼られている
・死ぬまでこの位置関係は変化しない、安全
ええええ。 ・・・それじゃ全然「家族」じゃないですね。
・・・「愛玩奴隷」?

... 以下つづき...

コニー・ウィリス短編集 「わが愛しき娘たちよ」の表題作が秀逸。

ちょっと「愛玩ペット」の解釈を続ける前に、ここで話を横に移して本書の全般的な印象を記しておきます。

えーと、江戸時代以前の殺生禁断令の検討や、異文化での事例など、いろいろ手は尽くされていますが、民俗学とか文化人類学とかでの観点(異文化からの視点)は些少です。
動物園における観客の反応などの観察や、巷間のペットに対する姿勢・態度・位置関係の変化などの社会調査の結果とか、経験・数値・調査がまず前面にあります。で、解釈のほうは甘くしてあります、というか、あまり踏み込まない。各論による解釈の紹介と読み下しを試みてはいるけれど、敢えて各論の専門家ではないからと及び腰にさらっとスルーしている、距離を置いている。文化考察にしても、比較文化にまでは行かず、既存の各論を参考紹介する程度。
でもって、管轄にない案件は考慮に入ってこない。
例えば・・・
・血統書付きとの関係考察はない。
・ペット産業、雑誌、ブリーダー方面のトレンド掘り下げやデータも薄い
おやおや ・・・この著者の姿勢はなんだろう?何に由来しているんだろう?
不思議に思って著者の略歴を今一度見てみると、
石田〓 いしだおさむ
帝京科学大学生命環境学部 アニマルサイエンス学科教授(動物観・動物園学研究室)。
ヒトと動物の関係学会会長。一九四六年東京生まれ。
東京大学文学部卒後、上野動物園、井の頭自然文化園園長、葛西臨海水族園園長、多摩動物公園飼育課長、同副園長などを経て、2007年より現職。
1989年から動物観研究会を設立して、雑誌『動物観研究』を発行。主な著書に『上野動物園』『井の頭自然文化園』(いずれも東京都公園協会)がある。
動物園。
ああ。そうか。もしかしたら、自分が管轄する範囲内で、観察し資料を集め、記述・記録することに徹する、よけいな解釈は混ぜ込まない、・・・このスタイルは、長年の「動物観察」で培われた感覚で記されているからなのかな、と我流に納得してしまう。対象から距離を置き、観察し、記述し、よけいな解釈は盛り込まない。そうか、飼育のプロっぽい。
ともあれ、検討の結果は面白い。
観察現場から上がってきた報告。さて、次はこれをどう解釈するかだ。

【ペット愛玩のモノカルチャー】
しかし、わずか10年で「異質な存在」に対する観念・姿勢がここまでがらり変わってしまうってのは、・・・よくあることとはいえ、毎度おっかないですね。
【「ペットを家族の一員として飼いたい」 35% → 83%】(p18)
・対等ではなく下位:子ども、弟妹、孫・・・
・自分が世話をしないとあやうい存在、頼られている
・死ぬまでこの位置関係は変化しない、安全
社会教育や使役の目的ではなく、「頼ってくれる弱者」として愛玩に供されるペットになった。時代が変わった。
それ以前は、防犯や、子供の情操教育用など、「何かの役割を期待して」犬は飼育されることが多かったのに、「下位の家族:子ども、弟妹、孫」のポジションにしてしまったために、犬の散歩は「子供の仕事」ではなく「家族の世話役」である大人が行うようになってしまった・・・
世話をして、喜ぶペット。
この図式は、なんか
赤子のようなペットを飼い、「お役にたてた感」で満足する飼い主。
お役にたてた感を得られることが少ない社会・家庭になってきているのか。

メディア上でも、動物の描かれ方でウケのよいタイプに大きな変化があったと思うんだけれど、本書にはそのへんの考察はないわけで(なかったと思う)、
描かれ方の差。
・・・個人的には「ハム太郎」と「カボチャ」を比較してみたくなるんだが。

「ハム太郎」は、動物臭さはいっさい欠如。無害でひたむきな「抽象的ヒトキャラ」として描かれる。「自然」要素も欠落。要するに「異文化として距離を置く必要がいっさいない」、世間が共有していると想定できる範囲内で行動や思考を解釈してしまってかまわない存在。
ハムスター自体、「異様さ」を気にせずに済ませてしまえるような、たいへん安直なペットとして重宝な生物。
「カボチャの冒険」は、生々しい「自然(猫)」がそのまま「異物」として眼前にゴロッと転がる感じ。下手な擬人化や自分の側への引きつけはいっさいなし。動物は動物。いさぎよく「理解を越えた異文化・異存在」としての尊重をすっくと描き込んでいる。
(「カボチャの冒険」:五十嵐大介の作品がお好きな方には一読オススメのネコマンガ。ほか五十嵐大介の代表作は 『 はなしっぱなし』『 リトル・フォレスト』『 魔女』『 海獣の子供』)
で、自分はネット普及に平行するように、世間の「異文化察知力」が落ちてきているんじゃないかと思っているんだけれど、その流れから考えてみるとすれば、「動物」も異質な存在(翻訳・勘案・配慮がめんどう)として扱うのではなく、自分側の規範のまんまで省力思考扱いできるタイプの動物が、喜ばれるようになったのではないか。
異文化や異存在として一歩引いて考える必要がない、てめえの側で短絡思考してかまわない。
「ペットを家族の一員として飼いたい」と考える層の特徴は、
・釣り、登山、バードウォッチングなどの経験が少ない
・行動特性的には都会派 (p18)
釣り、登山、バードウォッチングなどの「異質な存在との対峙」に耐えられない、画一化思考を画一化だと感じる余裕さえもないほど飼い慣らされたモノカルチャー思考のインドア派・・・
そんなインドアペット派の人々に、ちょっとうかがってみたいのだが「カボチャの冒険」の感想を。

【動物とのふれあい】
本書『現代日本人の動物観』のこの指摘が面白く。
p.28
筆者の長い動物園生活からの経験では、動物と触れ合うコーナーの人気は高くなる一方である。どこの動物園でもある「ふれあいコーナー」は実は、「ふれあい」ではなく「お触り」コーナーなのであるが、あたかも子ども(大人の場合も少なくない)と動物が触れ合っているかのような錯覚を作り出して、両者の合意の上で成立しているようにセットされているが、これはかなり一方的な関係なのである。ここで述べたいのは、触りたい願望が社会的に抑制されてきていて、そうした願望を果たすためには、親子や夫婦の間でも一定の緊張があり、ペットや動物園の動物との間にはそれがない、ということである。
p.30
野生動物に触る、ペット化する事業はかようにして盛況である。
普通触る行為をさせない、あるいはしない野生動物であっても、それに触るのは人気のあるイベントになる。最近、動物園の飼育係への希望者はきわめて多いが、その半数は、動物園の飼育係は野生動物に触ることができると誤解している。
動物との直接的接触が可能になるペット飼育、特におとなしく触られるままにしている犬との関係は重要である。
うちのネコも、毛皮が気持ちよくてなー。
雑種洋猫の「素肌にニャンコ」はサイコーにキモチイイです。猫爪で深手を負わされてもやめられません。

著者は、「現代生活では実の家族であっても懇意の接触(ボディタッチ)は憚られる緊張状態にあったりする」と家庭内のきまずさを指摘して、補償効果からペットタッチ需要を解釈していくのだけれど、残念ながら、この「ふれあい」渇望で時代変化があったかどうかについては、1991年と2001年の調査には項目がなかったのか、述べられていない。

【学校における動物扱いの現状は悲惨】
動物飼育のプロである著者は、さらに「小学校が悲惨だ!」と告発する。
【動物の特性も飼育法も知らない理解できない教員によって、汚い病気持ちの動物が大量生産される】p.61
・動物の生態や飼育法にまったく理解がない教員が担当するはめになる
・学校飼育動物に関する歴史的研究はまったくない
・これでは動物嫌いを作る教育になってはいないか
ニワトリ、アヒル、ウサギ、メダカ・・・

飼育係さん、先生は「どうやって飼えばいいのか」きちんと教えてくれましたか?
それらの動物は、どんな繁殖をしてどんな病気になるのか、先生はご存じですか?
雨崎: 自分が通ったマンモス小学校、攻撃的で脱走常習犯のオンドリがめっさ怖かった。帰り際、いきなり校門の上から襲って来るんだもんな。あと、飼育小屋のウサギが自分の子の首を噛み切って、暗がりで手に持ってくるくる回しながらクルミのようにかじり食っていたのは悪夢だった・・・

でもどうにか動物嫌いにはならなかったよ。
さらにはモンスターペアレントの動物愛護版というか、
・昆虫などの無脊椎動物を使う実験でさえ「命を大事に」と抗議を入れてくる親御さん
【命を大切にするという観念が肥大化している】p.63
動物園で長年いきものの生死につきあってきた著者は、それこそ「指導要領」がおかしいからなんじゃないかと指摘する。
文部科学省は科学教育において
・理科的センスをつける、動物や自然を理解する
・科学的精神に基づき生命の大切さを身につける
という二段組を立てた。
p.64
この構成にはいささか飛躍があると思える。 [〜中略〜] 「動物や自然を理解する」科学的精神は、それを観察することだけでは不十分であり、ときに実験や飼育をともなうのである。日本人にとって「生命」ということばは、それをそこなうすべての事柄への否定に連続してゆく可能性がある。いいかえれば、科学的精神と生命尊重は背反する可能性があり、これを統一したものとしてとらえる教育は、きわめて高度な論理とテクニックが必要である。 [〜中略〜] 生命尊重は学校で教育的課題とするには、[ あまりに困難。 ] [〜中略〜] 価値混乱の新しい火種を作り出すのではないか。文部科学省はパンドラの函を開けてしまったようだ。
つまり、下手に科学を教えて生命尊重を説き上げるそんな方策は、御しがたいトンデモを量産するだけだぞと。
解剖をやりながら、実験のために殺しておきながら、生命の尊重を、命への感謝を醸成するには、それこそ歴史の淘汰に耐えてきたような確固たる価値体系の裏付けがないと無理だ。例えば因縁、例えば来世の報い、最後の審判。
雨崎: 昔、小学校の林間学校でお寺に宿泊して、お堂で全員が晩飯をいただこうとするとき、お膳の上の魚料理(小ぶりな尾頭付き)について、僧侶さんがこのようなお話をなさっていたのが、いまだに心に刺さっている。
「この魚はあなたがたに食べていただくために命を落としたのです。食べてもらえることによってその魚は来世で救われます。大事に食べることによって、あなたがたは魚を救うのです。見捨てないで下さい。感謝して無駄にせぬよう大事な命をいただいてあげてください。」
切り身ではなく、一尾丸ごとだったのが、よけいに効果的だった。
生き物の生死や運命をどう考えるか。
そのへんほったらかして現場に「生命の尊重」というお題目用の価値観を泥縄させるから、へたくそな「日本人の土着宗教観」がぐだまぜになったような「カブトエビがかわいそう!オタマジャクシを殺さないで!」みたいな理念ほったらかしの感情論レベルのお教育仕上がりになってしまう。

●ペットは食えるか:
飼っているイヌネコ牛馬を食う、という文化は古今普通に存在していたのだが、こう見てくると、「異なる存在」感覚での飼育と、「家族」呼ばわりの飼育とでは、食えるか否かの分水嶺が大きく違ってくる可能性があるんではなかろうか。
なお、 家族の死体を食べる習俗も、文化的にはありなので(意味の文脈しだい)、単純に「家族呼ばわり=食えなくなる」とも言いきれない。
【ヒトと動物の関係学会】

著者は「1989年に動物観研究会を設立」してますね。
毎月例会も開いているらしい。気になるなぁ。
あ! 今月20日に本書がメインの会が開かれるじゃないか!
2008年 9月20日【東京】動物観研究会「現代日本人の動物観 動物とのあやしげな関係」
というのもあるんですね。
あーなんかおもしろそうだなー。いいなー。
えーと。「文部科学省の生命尊重に関わる指導要領」についてのツッコミや、「小学校における動物飼育の悲惨な現状」を取り上げている記述はどこかにありますか?
参照によさそうなページがあるようなら、あとでリンクをつけておきますが。
とりあえず、動物飼育について多面的に考えてみたい方には、当該書は思考のタネとしてたいへんお勧めです。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







次の記事 














