林真理(はやしまこと)
「駆けめぐる細胞たち 生命とモノのはざまで」
所収:『現代思想 vol.36−8 特集「万能細胞 人は再生できるか」』 青土社 (2008/06)
●JCRB(日本の細胞バンク)は、設立当初、細胞の提供は無償で行っていた。
●10年目、細胞提供数も種類も増え、かさむ運営経費に体制の見直しが行なわれた。
●細胞の分譲は、管理業務と切り離され、国とは別の組織「HS振興財団」が有償で行うようになる。
●HS振興財団は、細胞1アンプルあたりで「分譲手数料」と言われる代金を取っている。
●手数料は細胞の価格と呼んでさしつかえない。=実質的には細胞の「売買」だ。
●世界最大の細胞バンクATCCは「マテリアル」を「パーチェイス」に供している。
※ 細胞バンクについて
で、林さんは「細胞のモノ化/商品化」に違和感を表明し「防ぎうるか、絶望的か」と論考を締めくくるのだけれど、
... 以下つづき...

そこがね。
ほかの世代にも通じる感覚として提示できるのか。
それが難しいと感じるからこそ、彼はこのスリッパリー・スロープを防ぐのは難しい、と吐露するんだろうね。
林真理『「陳列棚」に様々な用途に用いられる人工細胞が並べられる日はいつだろうか。そのとき、細胞は最終的にモノになるのかも知れない。
それを防ぎたいと思ったとして、そのような実践を作れるものかどうか、今の私には絶望的な答えしか思い浮かばない。』

【滑り坂論法】
スリッパリー・スロープ。 (slippery slope)
「滑りやすい坂」。
日本語では
「すべり坂論法」 「滑り坂論法」 「滑り坂論」
「すべり坂議論」 「すべりやすい坂論」
などと表記される。
ちょっと今、手頃な定義がうまく拾えないので、勝手な雨崎的解釈で意味を書いておくけれど:
「このままにしておくと、事態は坂をすべり落ちるかのように、ドミノ倒しのように、怒涛のように悪い方向になだれ落ちていってしまうんじゃないか」そういう未来に対する危惧を掲げて主張する論法。
なしくずしが怖いよと。
倫理崩壊をなんとか歯止めしようよという流れでよく使われる。
新しい技術や医療など、従来の倫理観では処理しきれない状況が現れたときに使われやすいっぽい。
●ロボットが登場した→ 人間を超えるロボットができるぞ→ ロボットがヒトのような心を持ったらどうなるんだ→ ロボット支配世界が来るんじゃないか
●人工授精が登場した→ 異常な人間ができるんじゃないか→ 異常な生殖も可能になるんじゃないか→ 繁殖とセックスが別物になるんじゃないか
●クローンが登場した→ ヒトが自在に作られるんじゃないか→ 自分のコピーが知らないうちに作られるんじゃないか→ 奴隷用にヒトが作られるんじゃないか
●ケータイが登場した→ いつでもどこでもケータイに縛られるんじゃないか→ 心が病むんじゃないか→ 人類がケータイでダメになるぞ
●臓器移植が登場した→ 臓器売買がはじまるんじゃないか→ 金で貧者の臓器が買われていく格差社会→ 貧者は金持ちの臓器バンク扱い/臓器牧場としての、貧民窟・・・
●細胞が売られている→ 『「陳列棚」に様々な用途に用いられる人工細胞が並べられる日はいつだろうか。』

こう、なんかね、この手のスリッパリースロープ系の危惧表明を見るにつけ・・・、
・世相が歓迎すれば、雪崩れ落ちるし
・世相が忌避すれば、転げ落ちはしない
つまり、どっちにしろ異なる価値観から見ない限り、「恐ろしい下り坂」は実際には発生しない。んじゃないかと。
新しい事態に危惧をいだいても、その者がマイノリティ側に甘んじる限り(例えば旧世代化するとかメディア戦略下手だとかの影響力の少ない側)、新しい事態は「落ちるのが怖い」スリッパリースロープの悪夢として立ち現れる。「みんなきっとあ〜んなことやこ〜んなことをやってしまうだろう、そんなことはしないマイノリティの自分としては、その事態は怖いのです」
そう言われても、マジョリティ側が新しい事態を歓迎する方向であるならば、それは大衆にとってはおっかないスリッパリースロープではなく、素晴らしい新世界、明るい未来への輝かしい上り坂の姿なのであって。「忌避するなんてもったいない!」
例えば、次の世代には、我々の倫理観は通用しないんだぞと喝破するポストヒューマン。
例えば、違和感が消えるまでは新しい技術は普及しはしませんよと切って捨てる
いや、この「例えば」はどちらもアメリカンな楽天主義のたまものでもある見解なんだけれど、でもこれらでカウンターされているように、「滑り坂を危ぶむべき事態」の表明は、どっかこっか「行きすぎた滑り坂論」(バカな杞憂?)の気配を帯びがちになりやすい。
なんかね、スリッパリースロープ論は、自己言及的というか、なんかウロボロスの蛇? 立ち位置の偏りなくしてはありえない? 偏ってこそ自分の偏った想像が怖い? なんかそんな、ゴーストを帯びた映像っぽく見える気がする・・・んでね。
それと。
細胞バンクに対して表明される「モノ扱いされる細胞」という事態への危惧。
これ、・・・庶民的には「細胞はモノ扱いされて当然」とみなされていたりはしないだろうか?
そも、庶民的には、けっこう生物学とは乖離した形で、細胞やDNAは自分の・・・アイデンティティというか、自己存在とは妙に別扱い、べっこのもの扱いされているんだよね。 巷的には、細胞やDNAは「自分」ではなく自分の「オプションパーツ」だったりしている。とっかえが効く感覚。アクセサリー。IDカード。 そのへんからして、世間的には倫理考察にたずさわる者どもより、はるかに「モノ扱いされる細胞」に対して違和感がないんじゃないかと思うんだが。
そしてもひとつ。
世間的には「細胞」の意味合いと「卵子・精子・胚」の意味合いは、むちゃくちゃ違っていると思う。
そのへん(科学側と世間側のみなしの差、そして普通の細胞から生殖細胞を作れるというアノマリーまっしぐらな事実)も、べたべた切り張りしてワザを効かせたりすると、面白い絵が描けそうだよね。


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