守っているつもりの「ふるさとの文化」は、実際はふるさと以外の者によって歪められた戯画になってしまっていたりしませんか。
ふるさと自身のためにではなく、お国のために、ふるさとが動員されてしまってはいませんか。

『ふるさと資源化と民俗学』
岩本通弥 (編さん)
吉川弘文館 (2007/02)
[ Amazon ] [bk1]
走っている。
きわどく危ないキャットウォークをゲリラ達が突っ走っている。
いや、見た目は全然そんな内容だとは思えないような、のどかーーーなタイトルと装丁の本だよね。でも中身はいかん、危ない!

ネタとして、というか、話の持って行き方として、「正しい」か「使える」か「消化可能か」否かはさておき、人心をわざとギョッとさせたり不安にさせたりもどかしくもイラつかせたりして成り立つ商売(要するに作家とか社会学とかぁ)にとっては、たいへんおいしい告発(問題提起)が記されている。

『[資源人類学 第1巻] 資源と人間 』 内堀 基光 (編集) 弘文堂 (2007/12/5)
『[資源人類学 第2巻] 資源化する文化』 山下 晋司 (編集) 弘文堂 (2007/12/5)
とともに、この『ふるさと資源化と民俗学』をゲット。
たまたま、この3冊だったんだ。

●1巻「資源と人間」を読んで、
{{あ〜、この場合、文化人類学の文脈で「資源」なんて言い出したらもうナンデモアリじゃないか? 「資源」と言うよりは「人心を引きつけ授受できるすべてのもの」てぇことになっちゃうじゃないか。}}
などと面白がっていたら、2巻のほうで佐藤健二氏が
「文化資源」この複合語は、概念のブラックホールになる危険性が高い
と一発やっていて笑った。

●2巻「資源化する文化」を読んで、
各国で、ローカルな「文化」がグローバルな「欲望の応酬」に巻き込まれて踏みつけにされたり、外部と折り合うために工夫したり変質したり、いろいろな「
」がレポートされる中、ひときわとんがって異彩を放っていたのは、岩本通弥「現代日本の文化政策とその政治資源化:「ふるさと資源」化とフォークロリズム」
だった。
岩本通弥氏によれば、ほかならぬこの日本が、政府の隠微な画策によって”文化資源化”され、えらいことになっているらしい! なんだなんだ!?
●そして3番目に読んだのが『ふるさと資源化と民俗学』。
え? この本の編者が、ほかならぬ上のトンガリ論考の岩本通弥氏だ。
中に収録されているのは、岩本通弥氏が高く掲げた御旗の元に鋭意万難排して馳せ参じたような、問題意識と告発雄志にあふれた論者たちからのメッセージ。
びっくりした。
ふるさと文化や遺産の保護は、下手に無邪気にやっていると、全体主義につながりかねないのか!
政府(操作側)の都合で、国民(地方)が変質させられているのか!
... 以下つづき...

【現代日本の文化政策とその政治資源化】
●岩本通弥「現代日本の文化政策とその政治資源化 「ふるさと資源」化とフォークロリズム」」〜『資源人類学 第2巻』

●森内閣初期の頃(有珠山噴火の時だね)、自民党や自由党は「伝統文化再生法」「農山漁村伝統文化促進法案」を準備していた。
●その後、法案は上程されずに、国民運動という形に姿を変えて展開していく。
●「民間」からの働きかけという形で施策を実現していくスタイルは、日本の保守勢力がよく用いる常套手段だ。
●やがて総体として「ふるさと文化再興事業」なるものが姿を現し、「伝統文化を活かした地域おこし」や「文化としての農業」などの持ち上げがのしてくる。
●農村は、祭りや民俗芸能などの「日本文化継承の場」「伝統文化を保存する場」であり、都市民にとっての「心のふるさと」なのだと位置づけられていく。
●地域の祭りや芸能が、個別地域を越えた国民共通の「誇り」として「文化」的意味を塗り替えられていく。
「愛郷心ひいては愛国心の涵養を図るといった性格も帯びており、その意味で、この「文化」政策の転換は、日露戦争後の地方改良運動、第一次世界大戦後の民力涵養運動、昭和恐慌時の郷土教育運動、第二次世界大戦中の翼賛地方文化運動に連続した、 _ 地方改造運動 _ だといって過言ではない。」
そして、実例として、佐渡で展開した「ふるさと資源化」の危うい実態が報告される。
佐渡で「史跡佐渡奉行所跡」が発掘され、整備され、そして復元された。
な・ぜ・か、復元された「佐渡奉行所跡」の建物には「本物です」という立て札が添えられている。
これは何なのか。
当時のままに復元された、と想定される物は「本物」として扱っていいらしい、行政的には!
まあ、京都やほかの文化遺産でも、焼失したり修復したり、昔のままの建材でなくても、「本物」として制度上は扱っているからそれでも・・・事務的にはいいかのかもしれないが、おかしいやろ、ふつうの感覚では「本物」言うたらあかんやろ。お上は一方的に1984を実行する権利があるのか
でもって、佐渡の地元文化を保護&維持しようとしてきた地道な営みは、「佐渡奉行所跡」という中央からの(ふってわいたような)支配のシンボルを軸に、一気に「世界遺産登録」を目指して雪崩れていく。
佐渡が大事にしてきた古老や伝承などの、今そこにあるかつての我々ではなく、すべてが「奉行所跡」中心に。
中央(マスコンダクター)にとって都合のいい地方に変えられていく
地域のアイデンティティをすり替え、国家中心主義的なナショナルな誇りへの組み換えが行われる
どれが、大事な文化なのか。
地元にとっての大事さではなく、ヨソの、中央からの視線で、地方の何が文化であって文化でないのかが格付けされてしまうという異様さ。
そんでもって、もっとたちの悪いことに、政府がほどこす文化格付けのウラには、神道さんがたの意向があるのだと。
なぜ祭が「文化」なのか。
なぜ神道が極上の無印良品扱いされるようなことになっているのか。
●「ふるさと文化再興事業」を立案し、実現化していったのは、神社本庁と神道政治連盟である。
ということは、文化として大事に保存しなければならない物事の筆頭に、神道信仰の諸々が挙げられてしまいがちなのは、そういう操作がなされているからなのか?
ぎょっとする。
神道系の祭や行事が「大事な文化」とされがちなのは、これは「大事な文化」だからではなくて、神道組織が政府のウラから手を回してきたからなのか!? 「民間」からの働きかけという形で施策を実現していくスタイルは、日本の保守勢力がよく用いる常套手段だ。 そんなに我々は(かつて通った道を懲りないまま)操られてしまっているのか!?
どうなんだろう。この絵は正しいのか? 現状を深く疑うべきなのか?
文化人類学的には、文化に優劣はなく、あまねく文化は存在し、細部に宿り賜う。
その中、いずれかが「高級な文化」で「尊い文化遺産」で「価値ある文化」で・・・とされるのであれば、
誰が、どのような位置から、何を、何のために、文化資源として取り出し、どのように利用しているかが問われなければならない。
「誰が、誰の文化を、誰の文化として、誰をめがけて」資源化するのか。(山下晋司「資源化する文化」〜『資源人類学 第2巻』)
なぜ、日々の暮らしより「文化遺産」のほうが重要なのか。
なぜ、郷土料理より神道信仰のほうが重要なのか。
もちろん、「ヒトの感情を問答無用に動かす」事象のほうが、なにかと価値があるものとされやすいのだが、それを文化の価値と直結させていいのか、さらには、その価値操作にまぎれて神道が勢力を維持拡大しようとしている、そんな組織的な裏の動きまで深読みせねばならないのか。
気になるなら、この岩本通弥氏とその周辺の一連の論考を見てくれ。
なぜか、ウェブでは関連する論考に行き当たらない。書籍や自分野内に潜伏しているらしい。(自分の探し方が悪いのだろうけれど:ウェブ上に関連論考はありますか)


【文化の資源化】
●文化の資源化。
文化を資源にする。
自分たちの営みを、売り物にする。ヨソに向かって。ヨソモノの欲望を買うために。
ヨソの目を気にした時点で、そこですでにその文化は自分たちのモノではないことになる・・・ならないか?
第三者の目に媚びた時点で、それはもう何かチガウモノになってしまっているわけで、えー、端的に言えば、
古都京都のシンボルが「せんとくん」
てぇな、どこが文化の尊重やねんちゃぶ台ひっくり返して蹴飛ばしたろか、みたいなことになる。
(ごめん、京都ではなく奈良だそうです。そうだよね、鹿の角だもんな、気づけよ>自分)
第三者の目がないと、ヨソに対する資源化は無理なんだが、しかし、ヨソに媚びないと生きていけないと思わせる、それは何なのか。
だいたい地元的には、いったん外へ出ないと彼我の関係性で何が起きているのか、状況は見えない。
状況を見に、外に出た時点で、それはもう外との対比で地元を操作することになる。ジレンマというか、矛盾というか。
状況を確認する必要はあるか?・・・・複数の視点は必要か?
厳重な覚悟の上でなされている、「資源にしない資源化」という選択肢もあるのだが。> イゾラド
【ヨソに媚びないと生きていけない?】
まえに、田舎のお年寄りが「こんな何もないところに帰ってくるな」と徹頭徹尾自己否定をしてしまうほど、暮らしや文化の自尊心を奪われているのは、都市側の自己正当化価値観ばかりがマスメディアに乗るからではないか、と記したことがある。 ※
いや、そんな皮相なレベル以上に、「地方」の自尊心は「中央」にがっつり翻弄されているらしい。
中村淳「文化という名の下に 日本の地域社会に課せられた二つの課題」 〜『ふるさと資源化と民俗学』
を拝読するに、「地方」は時代で異なる文化価値観に引き裂かれてえらいことになっていたのか。
●1960年代まで:「地方はもっと〈文化的〉でなければならない」
そもそも地方には(価値のある)「文化」などないのだ。
西洋に追いつく物質的・経済的発展こそが「文化」であり「善」。
都会化せよ 近代化せよ 田舎臭さはバカにせよ。
地方「文化」の価値は否定し、駆逐し、矯正されるべきものである。
●1980年代以降:「地域社会は〈文化〉を保存しなければならない」
地域社会には、実は豊かな「文化」が残されているのだ。
田舎の人々は田舎の豊かな「文化」を次世代に向けて継承し保持し続けなければならない。
こんな大転換があったらしい。おっそろしく逆なベクトルではないか。地元的にはこの変化をいったいどう消化したんだ? (すまん、自分は都会っ子なんで当事者の状況はわからない)
都市的物質文化の普及(中央や流通にとって操作しやすい環境整備)がひととおり終わり、それによって「精神が荒廃」したぶん、地方に「癒し」のファンタジーをおっかぶせて、ついでに「農業」の自尊心もアップさせてウルグアイラウンド対策にしちゃいましょうよと。
えええええ。

さらには、国民を動員する道具として、中央にとって都合がいい形で「地方文化」が担ぎ出されていく。
p32「われわれ国民の文化を、あなたたち地域社会のひとびとは守ってください」
p33「文化」は聖域であり、その名の下に行なわれることには一切反駁できない・・・
・・・みんなといっしょにいいことだと思って行っている何かが、実はヤバイモノだと気づいたとき、あなたは、目をつむりますか?

【目次と執筆者一覧】
『ふるさと資源化と民俗学』には、ほかにもぐっさぐさぶったぎる論考が並んでいる。
●岩本通弥「ふるさと文化再興事業 政策立案過程とその後」
「文化」政策は、都市住民の「観光」に媚びるばかりの、観光でしか耐えられない地域を生み出してしまわないか。
●青木隆浩「グリーン・ツーリズム政策は地域を守れるか」
ダメダメなグリーン・ツーリズム政策が、かろうじて制度上のさまざまな問題を露呈させずにすんでいるのは、そも効果が小さいからだ。
●菊地暁「コスメティック・アグリカルチュラリズム 石川県輪島市「白米の千枚田」の場合」
表層的な農業賛美(コスメティック・アグリカルチュラリズム)に、地域社会農業が抱える問題(過疎化・高齢化・・・)が塗りつぶされてしまう。
●才津祐美子「世界遺産という「冠」の代価と住民の葛藤 「白川郷」の事例から」
地元の善意が、外部の意向で否定され、撤去され、不自由に縛られていく。「何のための」世界遺産なのか。ヨソモノのための、地元なのか。地元は世界に魂を売り渡すのか。
『ふるさと資源化と民俗学』 目次と執筆者一覧
岩本通弥 「序」
●戦後日本の民俗文化政策
中村 淳 「文化という名の下に 日本の地域社会に課せられた二つの課題」
岩本通弥 「ふるさと文化再興事業 政策立案過程とその後」
青木隆浩 「グリーン・ツーリズム政策は地域を守れるか」
●資源化の現場と地域の実践
菊地 暁 「コスメティック・アグリカルチュラリズム 石川県輪島市「白米の千枚田」の場合」
才津祐美子「世界遺産という「冠」の代価と住民の葛藤 「白川郷」の事例から」
森田真也 「「文化」を指定するもの、実践するもの 生活の場における「無形民俗文化財」
蘇理剛志 「奥会津檜枝岐村の観光化と地域の論理」
●現場と民俗学はどう関わるか
政岡伸洋 「被差別部落における文化資源の活用と「民俗」」
中西裕二 「複数の民俗論、そして複数の日本論へ」
岡田浩樹 「民俗から「文化」への転移 飛騨地方におけるその意味作用」
川森博司 「中央と地方の入り組んだ関係 地方人から見た柳田民俗学」
この本は、アボリジニ、サーミ、イフガオ、マダガスカル、シベリアなどの「文化資源」論考も並ぶ
『[資源人類学 第2巻] 資源化する文化』 山下 晋司 (編集) 弘文堂 (2007/12/5)
と併読することをオススメする。論者がかぶっていることと、世界の状況と合わせて立体的に位置関係を見ることができるのとで、便利だと思う。
関連記事 追記:
2008/09 【日本語記事】三菱総合研究所
NPO便り:世代間で伝統的精神文化の継承を【PDF】
NPO法人「ちんじゅの森」

あと、連想をちょぼちょぼ。
●なぜ高価
この本、一万円するんですよ。

何でこんな値段で出すかな。 こっそり陰口にするための算段? 出すだけ出したよという自己満足モード?
なんとかならんですかね。この価格設定では買えませんよ、ふつう。 みなさん、図書館で借りて下さい。
●「せんとくん」
自文化をヨソに対する「資源(商品:欲望を惹き付けるアイテム)」として提示しようとした時点で、なんかもう、史実も事実もどうでもいい、一億地方「総テーマパーク化」みたいなパッケージ化、キャラ化、・・・上品さも伝統もクソもない商魂主義に魂を売り払ってしまうような気がする。
その意味で、何か象徴的なモノを、と考えたときに、あのクソ「せんとくん」は憎まれアホキャラでとても使い勝手がいいのではないかと思えてくる。w
●世界遺産。。。
地元の価値が、中央や外部に操作される。そういう視点が「外部から」そそぎ込まれたとき、無邪気に地元で世界遺産に希望を託していた人々は、どうリアクションすればいいのか。
祭の保存に懸命になっている人々が、神道の全体主義という投影を受けたとき、どうみなして対処すればいいのか。
その解決に全面的に関われるほどの人材がいないがゆえに、もしかしたら、これら論考はウェブでは日の目を見ないままになっているのだろうか。

【無印としての日本国民】
文化の資源化という略奪。
「ゼロマン」のカマボコハウスを思い出す。
中央に操作される地方。外部から価値観を塗り替えられていく周縁。
でさ。ふと思うんだけど。
中国には、むちゃむちゃ漢民族が多い。彼ら漢民族は、わりと根無し草というか、「漢民族」や「中国」には所属してはおれども、実際にはあるはずだったもっと細かい下位区分がアイデンティティから失われている。それぞれに違っていたはずの出自が、画一的に漢民族(中国)に塗り替えられ、価値観もそっちになびいて行っている。という話を聞いたことがある。
その意味で、日本は中国以上に_もっと中国的_なのではないか。
国内の少数民族性は無視され、我が国は単一民族だという観念で、多様な地方は日本という色一色に塗りたくられた。日本は、延々やってきたそんな塗り替えを、あいかわらず続けているだけなのではないか。そして、日本の行政によって、あいかわらず都合の良い均一色に塗り替えられ続けている地方。昔の色を忘れた根無し草、「国民化」。
こんなじゃ、国民総”漢民族”化と似たようなもんだろう。
地方は地方ごとにもっとバラバラであっていいだろうし、日本国民から距離を置いて少数民族として立ち上がる者ももっといていいだろう。
しかし、その立ち上がり方も、第三者の視点と切り結ばざるをえない今では、「観光資源化」という資本主義的な紋切りパターン(陳腐な観光地!)の中に取り込まれてしまいかねない。
その意味で、マイノリティはイゾラド(隔絶)を覚悟すべきだし、チベットを応援するべきだし、日本国民は、自分が所属できるマイノリティカテゴリーを各自探してもいいんじゃないか。
日本国民から距離を置いてから、それから日本国民に、なるなら、なれ。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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