チョー危機的状況におかれ、完全にイッてしまったときのヒトの反応とはどのようなものか、その研究を尽くし、どんな修羅場でも確実に殺人や防御をなしとげる人間を作る。そのエキスパートが記したご本だ。

『「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム』
デーヴ・グロスマン、ローレン・W.クリステンセン著
二見書房 (2008/3/1) [ Amazon ] [bk1]
> 人を殺しても心を病まない兵士を育成する!
> 戦闘心理・生理研究の決定版
著者は「殺人行為」の研究者だ。「人が人を殺すとき、当事者に何が起きるか」について、この本はつまびらかに教えてくれる。
そして「命がけの殺しあいの場面で、何事にもひしゃげることなく、的確に遂行できる人間」を作る訓練についても、厚い経験と実績の蓄積を元に開陳してくれる。
この著者は、かねてより
その1●人間を効率の良い殺人マシンにする方法はこれだ
その2●テレビゲームは人間を効率よく「人殺し」にする
このショッキングな主題2つについて、熱心に世に説いて回っている。
当該書も、内容は大きくこの2つを軸に展開する。

【覚えておくと便利な「壊れる自分」】
先日記した
慢性のストレスで萎えたときの心理反応
の話だったと言えるかもしれない。
今回の
急性のストレスで萎えたときの心理反応
だ。大きくくくるならば、「緊急時ストレス管理(p.35)」「「緊急時ストレスマネジメント(CISM)」ということになるらしい。

殺るか殺られるか。
ヒトは「土壇場」でどんなことになるのか。
まず身体反応では、「大小便を漏らす」。
ふつうに、漏らす。p.48『ふいにだれかに襲われて殺されそうになる。このとき、身体反応は完全に交感神経系に支配され、消化吸収のような副交感神経系の働きはすべて放棄される。』
p.48 大意:戦闘で大小便を漏らさなかった兵士も、ほとんど全員がいわゆる「ストレス性の下痢」を起こす。
ほおお。
でもって、「お漏らし」は土壇場ではアタリマエの現象であるにもかかわらず、「恥・不名誉」がまといつくからか、語られず知られていないんですね。秘められがち。
p.43『9・11テロほどくわしく報道・研究された事件は、世界史を見てもほかに例がないと思う。にもかかわらず、生存者の大半が大小失禁を経験していることはほとんど知られていない。』
漏らすのはアタリマエなのだ。だのに世の中にあるのは、お漏らし情報はきれいに割愛した小説、漫画、映画、報道だらけなので、いざ現場で「大小便を漏らしちまった!」当事者は、そのことに困惑狼狽し、
それだけでもう、かなーり戦闘や生存に不利になる。
狼狽するな。うろたえるな。
土壇場では自分に何が起きるのか、それがどの程度自分の命に関わるのか、戦士はあらかじめ知っておくべきだ。著者は戦士が踏まえておくべき土壇場反応について列挙する。
土壇場でイッてしまうのは身体だけではない。おもきし頭も理性も壊れるのだ。

... 以下つづき...


■時間感覚の異常
時間延長(スローモーション) 6割強
時間短縮(早送り) 1割強
■音の異常
音がなくなる/聴覚がとぶ 8割以上
音が異様に大きく聞こえる 1割強
自分の発砲音が聞こえず、銃が壊れて発砲できていないと勘違いすることもあるらしい。p.205
■視覚の異常
視野が異様に狭くなる 7割強
異様にくっきり見える 7割
視野の中央以外が見えなくなる、近くの物に目の焦点が合わなくなる、遠くの光景がクローズアップされてぎっちり目に焼き付く・・・
■記憶の異常
何があったか、何をしたか、思い出せない 5割
おかしな記憶が紛れ込む 2割
銃撃に関わった警察官の2割が、実際には起きなかったことを起きたと記憶してしまう計算だ。これは裁判などで大問題となってしまうらしい。
なんせ銃社会アメリカからのご本ですので、銃撃戦のデータは豊富です。
p.208
「発砲前」と「発砲中」のデータを合わせると、9割の警察官が一種類以上の歪みを経験し、8割が少なくとも三種類の歪みを経験している。
■ほか、機能の麻痺
自動操縦(こわくてロがきけないなど)7割以上
感情や現実感の喪失/解離(無関心) 4割
脳がそもそも寝てしまうこともある(!)。戦闘の合間、緊張の糸が切れると、戦闘中の異常興奮で消耗したぶんの揺り戻しで猛烈な睡魔に襲われることがある。ミサイルの雨にも起きないほどの爆睡をしてしまい、あっさり命を落とすケース・・・。

【戦闘反応の進化心理学・進化医学】
まずもって、極度のストレスに襲われると、ヒトのあたまはマトモではなくなる。いや、これは進化心理学的に言えば「マトモにおかしくなる」という話になるらしい。フツーにおかしくなるこの現象について、著者は進化心理学・進化医学的にしくみを解釈してみせる。
頭がおかしくなるのに、どうしてそのほうが生存率が上がると言うのか。
p.17
人の脳が野生状態で実地試験に合格したのは、何百万年も昔のことである。その脳を私は「野生脳」と呼び、「論理脳」と区別している。論理脳をありがたがる人は多いが、いったん危機的な状況に陥ると、この脳はあまり役に立たない。論理脳は反応が遅く、独創性に欠ける。善悪の判断にこだわり、なかなか現実を受け入れられず、貴重なエネルギーを空費して、ものごとはどうあるべきか、かつてはどうであったか、どうでありうるかなどと考えてしまう。論理脳は、厳密な限界や規則を設けてそれに従いたがる。しかし、野生脳はなにものにも従わず、なにものも考慮せず、いかなる義務も負わず、必要とあればどんなことでもする。感情にも政治にも礼儀にも縛られない。野生脳の働きは非論理的に見えるかもしれないが、自然の摂理に適合するという点で100%論理的である。ただ、論理を用いて人を納得させようとしないだけだ。事実、戦闘のさいには、人がなにを考えようが野生脳はいっこう気にしない。
理論的に言えば、野生脳の役目は、自然が人に与えた最も強力な能力 −− すなわち直観を得やすくすることだ。
頭が使えないのに、どうして身体の自動反応や直感だけで生き延びられると言うのか。
とっさの緊急時には、ふだん用の感覚も知識も役立たない。そのかわり、身体が賢く自動反応してくれる方が、土壇場の命の保護には有用であるらしい。
p.17『戦闘に関しては、頭よりも身体のほうが賢い場合がある』
いや、身体が賢ければ、の話だ。
・・・・「賢い身体」?
賢い身体と、賢くない身体が、ある。
本能的に動くとしても、その行動の成否には、身体の経験値が大きくモノを言うらしい。

【初心者向け、プロの殺し屋の作り方】
当該書
p.15大意【前作の『戦争における「人殺し」の心理学』はピュリッツァー賞候補になり、FBIアカデミーや陸軍士官学校などの何百という警察署や軍の組織のほか、カリフォルニア大学バークリー校などの大学でも重要な教材として使われた。】
その本の中で再々指摘されていたのは、
●フツウの人間は、たいがい戦場では発砲も殺人もろくにできずズタボロになる。
●適切な訓練を施せば、平凡な人間も優秀な殺人兵士になってバシバシ人間を殺せるようになる。
という事実というか、現実というか、みごとな訓練の成果。
大事なのは、訓練なのだ。
訓練とは何か。
訓練とは、あらかじめ土壇場で自分に何が起きるのかを、身体に叩き込んでおくこと。
土壇場の経験を身体に刻んで、頭がイッてしまっても大丈夫なように「賢い身体」を作っておくのだ。
殺し、殺される。
そのような場面に追い込まれると、ヒトの反応はめちゃめちゃプリミティブになる。理性が吹っ飛び、感覚も機能も限定され、自動ロボットのようになってしまう。既製のプログラムに逃げ込んでしまう。
既製のプログラムとは何か。
これまでに経験した何かを、自動的になぞって行動してしまうという緊急回避策、もしくは、_ 罠 _ だ。
p.98 (アメリカでは警察への連絡は911番。日本なら110番だね。)
たとえば911に電話をするという単純な行動がある。簡単な宿題を出させてもらうので、ぜひやってみていただきたい。家族そろってテレビを見ているような晩に、電話線を抜いたうえで、家族全員に911をダイヤルさせるのだ。少なくともひとり20回ずつ、年に何回かやっておくといい。なぜこんな簡単なことをと思われるだろうから理由をご説明しよう。
たとえば、一度も911にダイヤルする練習をしていない子供がいるとしよう。その子がひとりで留守番をしていて奥の寝室にいるとき、だれかが侵入してきてその寝室のドアを破ろうとしはじめたとする。おびえた子供の心拍数は220回/分にもなってしまうだろう。忘れてならないのは、心拍数が115回/分になるころから微細運動の能力はしだいに損なわれていき、175回/分に達するころには近視野も失われるということだ。心拍数が220回にも達するいま、子供の命はそれまで一度も押したことのない三つのボタンを押せるかどうかにかかっているのである。前もって練習したことがあれば、心臓が激しく動悸を打っていても、どうすればいいか指が憶えているものだ。しかし、一度も練習したことがなかったら……

身体に刻んだ記憶は強いのだ。
先日の、高齢者心理学の話は覚えているかい。
2008/06 『 老人差別の基礎知識:エイジズムと高齢者心理学 』
>【手続き記憶】(体の動かし方。一輪車の乗り方やスポーツのスキル)
> 加齢の影響がない
身体記憶は、衰えない。
脳の命令系統に異常やオーバーヒートがあっても、身体記憶は大丈夫。
死ぬほどのパニックに陥ったときに使える「身体行動の経験」を積んであるか否か。
知識や分別が役に立たない場面で使える「身体行動の経験」を刻んであるか否か。
自動的に、身体が的確に行動してくれるようにしておく。
それが、訓練なのだ。
地震、強盗、交通事故、火災、通り魔殺人・・・ あらかじめ、自分の体を動かして「身体行動経験」を自分に刻んでおく。 訓練って、知識じゃないんだよ。 知識じゃない、身体の経験値なんだ。
訓練をしておけば、ヒトは自分の命を救えるし、他人の命も奪えるようになる!

ただし、世の中には間違った訓練も多い。
p.139『射撃場で訓練する警官たちは、銃を抜き、二発撃ち、ホルスターに収めるよう教えられた。よい訓練法だと考えられていたのだが、のちにとんでもないことが明らかになった。現実の撃ち合いのときも、警官たちは二発撃つと銃をホルスターに収めてしまうのだ。相手はまだしっかり立っていて、こちらに撃ってきているというのに!』
気が動転して、「いつもどおりに」身体が身体の記憶で動いてしまう!
p.140『戦闘では、「本番になって急に腕があがるなんてことはない、訓練のときのレベルまで落っこちる」のである。』

訓練では、模擬弾が当たったら死亡&退場、にしてはいけない。竹光に切られたら死亡&退場、にしてはいけない。
人間は、十発くらい弾が当たっててもサバイバルできてたりする! 骨がぼっきり折れようが、人はまだ死なないからびびるな! そこらじゅうにトマトジュースを2リットルぶちまけてみろ! そのくらい血が出ても、人間はまだ動けるし生きていられるんだぞ!
あきらめるな。
身体に「負けた/死んだ」と認めさせる訓練を施すな。
著者は訓練の大原則として、「そこまでしてもまだお前は死んでいないんだ、生き抜けるんだ」という大事な身体記憶を刻むことを推奨する。
教訓 【訓練では、死ぬな】
すごいね。トマトジュース2リットルの自分の血だまりの中に立ったことはあるかい? 銃弾を喰らって、2リットルの血だまりに立って、腕ぼっきり折れてなお、自分はまだ死なない戦える、と思えるかい?
身体に修羅場をくぐれる耐性をつけさせること。「身に覚えがある」状況にしておくこと。
いざというときには、目が見えなくなり、音が聞こえなくなり、大小便を漏らし、記憶も飛び判断ができなくなり、それでも自動的に、身体が動いて自分を救う。そんな訓練をせよ、と。
※ 著者とつながりのある「殺人学」研究組織

【ゲームは人間を効率よく「人殺し」にする】
土壇場では、理性は萎え萎えになり、頭をさしおいて身体が経験の中から勝手に行動を選んでしまう。
さて、ここで当該書の主題の2つ目、「ゲームが人殺しを作るか否か」の話に入る。
基本的に、著者は一部の殺人行為を含むゲーム設定が、プレイヤーに「殺人を行う訓練をさせている」のだ、と主張する方向で邁進している。軍が編み出した殺し屋の作り方、それとそっくりな効果が、ゲームプレイにはあるのだと。
2005/02 『 「人殺し」の行動訓練 』
人間だと認識しうるモノを殺し続ける行為を積み重ねると、いかに
同じ人間を殺すという行為にものすごい心理的抵抗
を持っていたとしても、
特定の状況に置かれたら、なすべきこととして訓練の成果が自動的に表れる
ことがありえるのだ。
実際にゲームでナイフや銃を手にしていなくても、土壇場の事態を突破できる選択肢として「人間だと認識しうるモノを殺す」行為を繰り返していると・・・・。
繰り返し。すなわちそれは訓練。
このような「犯行はゲームのせいだ!」言説は、たいがい「ゲームのヘビープレイヤーでも、全然殺人などしないのが普通だろ。犯人がオカシイのであって、ゲームの影響だとは言えませんよ」と却下されるのが常だ。
が、この著者は一味違う。「普通じゃない者が行う所業まで責任を持て」「わずかな人数でも、死なせてしまうような訓練は許せない」という訓練をする側の責任感から、問題を説いているのだ。
p.157
何十万という警察官が、二発撃ったら自動的にホルスターに収めるという訓練を受けていたが、実際の銃撃戦において、敵がまだ撃ってきているにもかかわらず同じことをやってしまった警官はほんのひと握りだった。だがそれだけでも、この訓練法もやはりおかしかったことがわかる。
何百万という子供たちが毎日のように暴力的なコンピュータゲームで訓練を受けているが、ゲームで身につけた技術と条件反射を実際に使って、前例のない大量殺人を引き起こす少年はほんの数人だ。しかしこれだけでも、いまとんでもなく愚かなことがおこなわれているのはわかるはずだ。
「そんなことをするやつはバカなんだから仕方ない」
vs.
「いやいや、そんなバカでも、犯行に至るような間違った訓練さえしなければ防げたのだ!」
何より「土壇場での行動を訓練する責任者である」という点からの視点が、「わずかな瑕疵であっても、教え子を死なせるような訓練をすることは許されない」という日々の彼の立場が、「実際に危ないゲームがあるのだ!」という主張を掲げさせている。

(↓アンカーマークにはアンカーリンクがついているので、この箇所宛てにリンクできるんだよ)
【「人殺し」をするゲーマーとしないゲーマーの違いは何か】
確かに、どんなに暴力ゲームに夢中であっても、無事マトモに人生を送れる人間もいれば、「誰でもイイから殺して(人生を)クリアしたかった」と世間を震撼させる者もいる。だからゲームのせいじゃなくて本人がおかしいだけなんじゃないか。そうだね。
ありがたいことに、当該書は、その「人殺し」をするゲーマーとしないゲーマーの違いは何なのかについても、ヒントを挙げてくれている。しかもおもきし「訓練をほどこす者/経験を与える者」という責任ある立場からの視点で。
p.385 大意:
学校で銃乱射事件を起こした生徒たちには共通点がある。規律の厳しい活動やスポーツに参加せず、メディアの暴力表現に夢中だったのだ。
・学校で銃乱射事件を起こした生徒には、スポーツのレギュラー選手はひとりもいない。
・規律の厳しい武道の訓練をみっちり受けた者はいない。
・中・高校生対象の軍事訓練を受けていた者は皆無。
・競技射撃に参加していた者もいない。競技射撃は非常に厳しいスポーツで、撃ってはいけないときや方向に撃つと厳罰が待っている。
・サバイバルゲームの熱心な参加者はひとりもいない。これも厳しいスポーツで規律が要求されるし、プレイ中に痛い思いをすることもある。(サバイバルゲームが子供に有害だとする研究結果はない。)
詳しい論は、当該書の後半を使って、たっぷり色々な証左や事例を挙げて検証してある。考察をしたいのであれば、ネットで済ませずに、当該書に実際にあたってみて欲しい。

暴力ゲームに限らず、もう少し大きめの枠で見てみよう。
とんでもない事件を引き起こしてしまった痛さ全開の犯人たちは・・・、端的には、これは「もっと良い選択肢を_経験_していなかったから、手持ちの中の最善の選択肢を選んでしまった結果がアレだった」と言えはしないだろうか。
急性の土壇場反応では、萎えた心の代わりに、身体が身に覚えのある動きを勝手にしてしまう。
じわじわと逆境に追い込まれる_慢性の_土壇場反応では、自己救済のために「手持ちの経験の中から一番良さそうな手段/物語」を手っ取り早く選んでしまう。ほかにもっとましな解決策を経験をしてなかったから、すなおに経験に従って、しょーもない行動をしてしまった!?
参照:
自分を救おうとしてあがくとき、ヒトは周囲から刷り込まれたコースをたどってしまう。
そこには「良し悪し」「善悪」は関係ない。 「解決する」「開放される」と感じる展開が、延髄反射のように選択される。
萎えた心の視野の中に、かわいそうに、もっといい選択肢がなかったんだよ。分岐点の選択肢になかったんだ。経験値がなくて使えなかったんだ。視野の中で一番ビビッドな「突破感」を与えてくれた経験/物語を、とっさに選んでしまったんだ。
参照:
自殺に「救済感」がある国では、自殺者が多数出るというお話。
自己破滅することなく良い人生を歩めている人は、まともな選択をできるような経験を、成長過程で適切に摂取できていたのだろう。
なんでそんな愚かなことをしたのか!と事態を理解できない人は、おそらく「とんでもない選択をしかねない」ほどの人生の危機や、心の萎えを経験したことがないのだよ。

あとはちょっと余談ね。
【ゾウの選択肢、ギャングの選択肢】
NHKの輸入番組の話で恐縮だが、こんな事例が放送されていた。
地球ドラマチック
2008年6月4日放送
『ゾウはなぜ殺し屋になったのか』
殺し屋のゾウは、いずれも、親を人間に殺されて生き方の「手本」を失った若いオスたちだった。
別の国立公園から大人のオスが連れてこられると、暴れていた若いオスたちはすぐにおとなしくなった。ゾウの社会には、きちんとしたお手本が必要だったのだ。
成長過程で摂取した物語やロールモデル(役割のお手本)は、世界観や心の中の規範に長く影響を及ぼす。例えば県民性。例えば
戦争の中での成長は、児童の道徳の発達に影響を及ぼす
2008/07 EurekAlert Growing up amid war affects children's moral development
交戦地帯で生きているコロンビアの児童は、盗みや暴力は間違ったことなのだと理解はしている
だが、「復讐」の手段では盗みや暴力は許容できると答える。
これらの脆弱さは、ティーンエイジャーの間でより顕著である。
社会人たるべき良いお手本は見せてあげられていたか?
適切な選択肢の経験をゲットできる場面はあったかい?
【リスクとコストとベネフィット】
でさ。
良い選択肢や良い経験ができていなかったのであれば、それを与える方向で考えればよいとして。
どうしても、どっかこっか、良い選択肢や良い経験ができていないまま暴力物語に魅せられて実行してしまう者は出る。(暴力物語には、事件のニュースも含まれることに留意。事件を報道すること自体が、萎えた心に「打開策」として犯行を選ばせてしまう。自殺でも同じこと。)
では、暴力物語は規制するべきか? レアな殺人は昔からあったのに? 普通の人は犯行を冒さないのに?
前にね、こういう話があったんだ。ワールドトレードセンターの、9.11テロ後の過剰なテロ警戒や監視や検閲や言論規制に対して、
「監視より、危険を甘んじた自由を」
我々の自由を大事だと思うならば、監視を減らしテロの発生を覚悟して生きるべきだ、と主張する記事。
そういう高尚なお話といっしょにするのはアレかもしれないけれど、
我々のエンターテイメント(暴力ゲーム、バイオレンス映画に猟奇ミステリ小説、そして犯罪報道を見る楽しさ!)を大事だと思うならば、メディアに対する規制を減らし、ある程度の猟奇的殺人事件の発生を _ 覚悟して _ 生きるべきだ。
交通事故だって、リスクとコストとベネフィットのかねあい、そして運転者の自己責任から、ウン万人死のうが世の中に許容されているわけだろ。
効率主義には格差社会が必要なのだ、追い込まれた下層民が痛い選択肢で事件を起こすくらいは仕方ない。
そのようなスゴスギ主張も、パロディとしてありかもしれないと思えてくる。
どうですか。
どこまで、言論の自由や富と引き換えに、通り魔殺人を許容できますか。
他者のために良い選択肢や良い経験を与えてあげられる余裕がないならば、その結果として通り魔殺人が起きても仕方ない、そんな話は受け入れられますか。
あ、そうそう。
えーとね。殺人事件の報道は、よそさまに言わせれば、必要ないらしいですよ。

しかし、こうしてみると、防災訓練ってマジ大切なんですね。あれは知識じゃないんだ、自分の身体に覚えさせる訓練なんだ。
行政に他力本願で守ってもらうのではなく、省力思考して防災グッズに依存するのではなく、自分の身体で訓練を受けるべきですね。
おのれの経験値を向上させ、土壇場に対する耐性をつけるべき。
さすれば汝、救われん。

最近のうちのエントリはどうも長文すぎるなぁ。
すまんです。


![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







次の記事 













