
『死から見る生 自殺と終末期医療を考える』
佼成出版社 (2007/03)
「自殺と終末期医療を考える」ために各論者が集った論考集なのかと思いきや。
1980年代から今に至るまでの雑誌『真理と創造』(中央学術研究所)や『平和と宗教』(庭野平和財団)に載った既存の論考を収録したもの。(収録にあたり、適宜各執筆者による加筆改稿がなされている)
でも、巷に散在する既出文面の寄せ集めだった 『暴走する「地球温暖化」論』ほどの肩すかし感はない。
意外に濃い佳品がそろっている。
先日、目を通した
『死生学 1 死生学とは何か』 島薗 進、竹内 整一編 東京大学出版会 (2008/5/22)
が、その主題のために集った者たちが記した論考であるのに、なんかぬるくてスルーしてしまったことを思えば、この既出論考の寄せ集めである『死から見る生』の濃い感(現場的実感)は、けっこうイケているのではないかと思える。4半世紀ぶんもの蓄積の中からの、選りすぐりなのか。

【青木新門】
■青木新門「生きて、往く。だから、往生という −− 納棺夫が触れた死」
出色の逸品。
作家は、この角度から、こう焦点を絞って切り取り貫けば、一本厳とした心への穿ちを作れる、そう見込んで話を形成する。そういう、研究者とは異なる、作家としての流儀がきれいに結実している。
死体を棺に収める仕事、納棺夫。
富山地方では、納棺、湯灌は近親者が行なう風習になっているのだが、遺体を大切に扱い上手に棺/ひつぎ/に納める家は少なかった。ほとんどが村の長老や葬儀屋に指図され、男衆が酒をあおっていやいや遺体に触れるものだから滅茶滅茶になってしまうのが実情だった。見るに見かねて、納棺を手伝うようになった。ただ、それだけの理由だった。
その職に就いてからは周囲からは忌み嫌われ、自尊心もやりきれなく・・・
それが、とあるご縁のお方の父上の納棺を行うめぐりあわせに遭い、それからすべてが一変する。
... 以下つづき...

「先生さま、私が死んだ時には、先生さまに来てもらえんじゃろうか」。こうした予約が、たくさん入るようになった。納棺夫の指名予約である。
感謝されるのだ。あのお方ならば、すべてをおまかせできると。
自分を忌み嫌っていた親戚が、死の床で従前とは全く違った柔和な目を見せ「ありがとう」と感謝する。
死の床で、死と対峙して、「すべてが光り輝いて見えたのではないか」。
「生きて往く、透きとおった光の世界」。
「死者の顔はほとんどが、安らかで美しい」。
三年間で2000体(!)以上の遺体を棺に納めた筆者の言葉は、強く美しい。


増補改訂版『納棺夫日記』 文春文庫 青木 新門 (著) 文藝春秋 (1996/07)
『転生回廊 聖地カイラス巡礼』 青木 新門, 寺田 周明 北日本新聞社 (2004/05)

【カール・ベッカー】
■カール・ベッカー「何のために、人は生きるのか −− 臨死体験者の報告を踏まえて」
自殺未遂者の臨死体験は怖いぞ!という話がイイ。
p.20
自殺未遂者の場合、その臨死体験は一般の臨死体験者が味わう「明るく魅力的な他界体験」とは異なる。彼らが経験するのは、「明るく魅力的な他界体験」ではなく「暗く絶望的な闇の体験」なのである。見渡す限り無限に広がる暗黒の世界、そして、その漆黒の闇はけっして終わることなく、いつまでたっても一点の光すらも見えてこないという。その孤独感は、この世で味わっている苦しみなどに比べようもないほど絶望的で冷たく、そして寂しい。この「闇の体験」を覚えている自殺未遂者は二度と自殺を試みようとはしなくなる、ともいわれている。
この話は「自殺イクナイ!」とお考えの向きはバンバンお使いになられるといいんじゃないかな。実際の事例を集めまくって事例集などものせば、いろいろ有用で乙だと思うぞ。
自殺は、自殺に「救済感」があるからこそ、選ばれる。自殺から「救済感」を奪えば、自殺という選択肢は潰えていく。自殺既遂者の冥福は、祈るな。
ただし、自殺未遂者は貶めるな。生きている自殺企図者を貶めると、再び救済策として自殺を選んでしまうぞ。

【戸松義晴】
■戸松義晴「エイズホスピス寺院(タイ)から学ぶもの」
末期のエイズ患者と対峙する際に気をつけるべきこと。
エイズ患者を見舞いに行った自分が、意図に反して患者を殺してしまう可能性を考えろ。
エイズという病気の感染力は実際はすごい弱いんで、見舞いに行った者が恐がるほどのことはない。
それより、見舞う者が、エイズ患者に世間の病気をうつして殺してしまう可能性のほうが大きいのだ。
「お客様の中に、風邪をひいている方はいらっしゃいませんか」
ホスピスを訪れるときには、自分にエイズがうつるのではないかと考える以前に、抵抗力が激減しているエイズ患者に風邪をうつして死なせてしまう恐れのほうを警戒するべきだ。自分が、患者の死の原因になる可能性。
もっとぶっちゃければ、患者に忌み嫌われエンガチョされる健常者、という絵図。
世間にありがちなエイズに対する偏見を、現場は軽くひっくり返してくれる。
住職アロンコット師は、「安らぎのうちに死を迎えさせる、これが一番大切なのです」と常に語り、患者の傍らに寄り添う。「安らぎ」とは完全な医療でも看護によるものでもなく、とにかく傍らにいてあげることが大切なのだという。
口のきける患者には耳を傾け、口がきけなくなっても耳の聞こえる患者には語りかけ、口も耳も目も駄目になってしまった患者でも、とにかく体に触れてそばにいることを伝えつづける。つまり、ミーティングの時間をも惜しんで、患者のそばに居続ける。これがプラバートナンプー寺エイズホスピスのターミナルケアだったのである。
居ることに、互いがそこに居ることに、感謝する。
居ることへの感謝があれば、絶望的な臨死体験も生じないし、そも自殺も通り魔殺人も起きなかろう。

自己肯定感から、他者肯定感へ。
その相を見ずして、幸福感のサイエンスや、生命倫理を語る事なかれ。
へぇボタン:へぇ〜
と押してみるもよしお盆の前に、死について学んでおこう。

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