えええええ! こんなに素晴らしい内容の書籍なのに! タイトルや装丁がそんなにうさんくさいですか? もしかしてハヤカワ文庫だというだけでNGですか? それとも主題が前世紀過ぎましたか!?
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『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』 ハヤカワ文庫NF スーザン・A. クランシー (著) 早川書房 (2006/08) [ Amazon ] [bk1]
原書●宇宙人にさらわれた人々:どんな人がアブダクションに取り憑かれやすいのか
Abducted: How People Come To Believe They Were Kidnapped By Aliens Susan A. Clancy (著) Harvard Univ Pr (2005/10/01)
原書の書評:2005/08 New York Times Explaining Those Vivid Memories of Martian Kidnappers
「宇宙人/エイリアンがヒトを誘拐し実験する」アブダクション。その被害者(?)達は、なぜその体験を持つに至ったのか。
なぜ、ヒトは証明不能な事象を信じるのか。
この本にはヒト心理解読のチップス、それも汎用性の高いヒントが潤沢に詰まっております。
自分の前世は***だったと信じる人がいる理由。
水がすべてを知っていると思う人がいる理由。
通行人を何人か殺せば自分は救われると結論する者がいる理由。
かつてキツネが人をだますことができていたわけ。
妖怪、神仏、前世占い、アダルトチルドレン・・・

【UFOを信じる3つの基準】
昔々の前世紀、日テレやテレ朝でアブダクションやキャトルミューティレーションなど、矢追系UFO番組が花盛りだった頃。
SF書き仲間が3人寄り集まり、「何があったらUFOの存在を信じるのか」という点について盛り上がったことがあった。
1 ニーベルング系ファンタジー書き=「たしかそうな話を聞いたら」
2 「うる星」系日常SF書き=「自分で体験したら」
3 ハードSF書き(自分)=「研究データがあれば」
あまりにあからさまで
、しかもこの差は、各人の「信じる」基準だけでなく、ふだんの趣味にも、言動にも、思考にも、作風にも、人生観にもすべて一貫して見られる差だった。この差(個体差/性向の差)は、一生変わらないんだろうなと思えた。
1・知り合いから確かそうな話を聞いたら信じる/報道されていたら信じる
2・自分で体験したら信じる
3・メディアのみならず自分の体験さえも疑う、研究データがあれば信じる
あなたはどの基準で日々暮らしているだろうか。

人によって、「信じる」閾値は大きく違う。
安易に信じて周りに合わせ流される者もいれば、無粋に疑いの横槍を入れて「真実」のためには場の流れなどどうでもいいのだととんがる者もいる。
人それぞれの「信じる」閾値のまま人生を送り、それぞれに適職に就き、それぞれに世の中を成り立たせているんだと思う。適材適所。人類全員が科学者である必要は、さらさらないと思うし、一部の者が夢見る「科学知識が普及した世の中」なんてのはヒトとして不自然だとも思う。
ヒトは、何があったら、その事象の存在を信じるのか。
今信じていることが、どうして確かだと判断できるのか。
世の中にある情報のすべてを確認しきることはできない。
世の中には「体験していない/確認できない」情報が、あまりにもたくさん存在する。世界中の人間から体験や物語が発信されているが、自分は自分の範囲内でしか体験は培えない。
呼吸している空気に酸素がどれくらい含まれているのか、酸素がない空気で生きていられるかどうか、自分で確かめたことがある人はいったいどのくらいいるのか。確かめていなくても、人は「酸素を吸っている」と信じている。
日本のインターネットはいったいどのくらい検閲されているのか。確かめていなくても、人は「検閲のない自由なネットを見ている」と信じている。
腐るほどあふれている情報の中、どれを真実だとみなして受け取るのか。各人、何を基準に「信じて」いるのか。
ヒトは結局、「たいした証拠がなくても」雰囲気や気分で、物事を信じて生きている。どんな懐疑主義者でも、どっかこっか、気分でいつのまにか信じている部分はごちゃまんとある。
当該書の著者クランシー博士曰く、
●p.49「実際、わたしたちのほとんどは、たいした証拠がなくても信じることができる。わたしが出会ったアブダクティーがほかの人とちがうのは、_特定の_奇妙なことを信じているという点だけだ。」

【どんな人が宇宙人にさらわれるのか】

クランシー博士が見る限り、基本的に、「エイリアンにさらわれた、UFOに連れ込まれて実験された!」という感覚を抱える人は、ごくノーマルな人々であり、頭がオカシイ人々ではないらしい。
ノーマルではあるけれど、特定の信念に惹かれ、それなりに納得している。それがアブダクティー(さらわれ体験者たち)。
●p.195-196 大意:
>彼らは頭がおかしいわけではないけれど、社会の主流を占める常識からは自由な考え方や信じ込みをする傾向がある。超能力や占い、チャネリングや代替医療などに親和的であることが多い。
上で挙げた3タイプからすれば、
1ニーベルング系ファンタジー/知り合いから確かそうな話を聞いたら信じる/報道されていたら信じる
あたりに多そうな気がする。
でもね。実際問題、「3」の懐疑派データ主義を自認していた自分でさえ、「自分は宇宙人にさらわれたことがあるのではないか」と考えたことがあったわけで。
こらこら、懐疑派がアブダクションを信じてどうすんねや!
ん? 懐疑派がアブダクションを受け入れ信じる? もしかして、そうすると、アブダクション信仰には、高学歴の物理学徒や化学学徒がオウム真理教に走ったのと同じ機序が働いているのか!? そんな直感が沸いてくる。
●p.204-207 大意:
アブダクティーたちは、さらわれ体験にたどりつく前に、悩みの原因を理解しようとして、本や映画や研究者や催眠術師を探していた −− なぜ眠れないのか? なぜのけ者にされているように感じるのか? なぜ体に奇妙な痕があるのか? なぜ・・・・・・・
信じやすさには、ふだんのその人の「懐疑レベル」とはまた違う要素が大きく作用している。
まずは「悩みありき」であるらしい。
ヒトは、不安な感情に見舞われると、その原因探しをせずにはいられなくなるようにできている。「なぜなのか」うろうろうろうろ。原因が見つかれば、その不安な感情が解消される。不安はヒトを原因探しに駆り立てる。
... 以下つづき...

解決を求める探究の末に、選ばれる「アブダクション」。原因が定かではない問題の答を求める心のあがきに対して、アブダクションという設定はたいへん都合よく「解決」をもたらすらしい。
不安感情のスイッチをオフにして安心させてくれるなら、実際にはその原因が正しかろうが正しくなかろうが、かまわなくなる。人間は、不安から逃れるために、何かにすがる。

【宇宙人にさらわれる意味】
ヒトは、「物語」に依存して生きていることが多い動物だ。
「物語」とは、物事の意味関係のこと。意味の網。
周囲の状況がどうあれ、本人の健康状態がどうあれ、思考が抱える物語しだいで、ヒトは幸福にも不幸にも、病気にも超ハイにも変化する。意味しだいで、ヒトの状況は陰陽どうにでもあざなえる。
何か異常な出来事や特殊な状況に遭遇し、それが持ち合わせの意味体系/物語にそぐわないために不安や困惑に見舞われると、ヒトは感情の解消点を求めて、新しい展開や異なる物語を欲しまくる。
●p.195-196 大意:
アブダクティーは・・・
自分のことを、他人とはどこか違っており、ユニークで独創的だとみなす。
自覚する「違っていること」にプライドを持つ。
しばしば疎外されている感、アウトサイダー感も伴う。

孤立感を持っていた彼ら。
「エイリアンに選ばれ誘拐される」という設定は、自分の特別っぽさを肯定方向に意味づけし、なおかつ悩みの原因としても成立してくれる、たいへんおいしい設定なのだ。
アブダクションが流行っていた当時は「宇宙人のせいだった」とすれば、自分自身の存在の違和感と不安を、最先端のプラスの意味に変換できていたわけだ。
自分がアブダクションに憧れていた当時は、家督を相続する立場だったはずなのに某占いの結果によって「この子は家をつぶす星の元に産まれてきた。だから本家はつぶれた」として忌み嫌われ本家からほうりだされた上に、父親は失踪、母親は鬱病。そんでもって、じんましんは出るわ、オカシナ金縛りには遭うわ、・・・そんな状況にろくに科学的な説明も納得も人生の意味も成立するはずもない。なんでこんなことになるのか。疎外感ですな。
そこに持ってきて、テレビではアブダクション大特集。当時最先端だったMRIを使えばインプラント(宇宙人が体内に埋め込んだメカ)を検出できると聞いて、大学病院で検査を受けてみたいと夢描いた。
宇宙人のせいだったらどんなに良かったろうか。チャンネルを変えられればどんなに良かったろうか。

【時代と信仰】
しかし、誰にでもどんなお悩みケースにもアブダクションは効きますよということではない。信じやすければヒトはなんでも信じ込む、とはいかない。
●p.197 大意:
>「前世の記憶」をよみがえらせる催眠実験では、その記憶を信じたのは、はじめから輪廻転生はありえると思っている被験者だけだった。
すでに持っている物語に沿うものである場合に、ヒトは鋭意、目の前の物語を内面に取り込んでしまう。
ヒトは、ふだん浴びせられる物語を内面に摂取して思考しているわけで。目の前に日テレやテレ朝の宇宙人特番がてんこ盛りだったりすれば、アブダクションは強く「まともな」選択肢として立ち上がってしまう。
ふだんから、アニメの世界救済物語に親和的であったなら、
・自分のユニークさを肯定し
・世界救済物語に参加でき
・自分の悩みを解決してくれる
オウム真理教は、アブダクションより適切な物語として自分を救うために選択されただろう。
一方向メディア(一昔前のテレビアニメ)全盛だった時代に多くの視聴率を集めるには、そんな物語設定が手っ取り早かったし。
オウムに参加した科学の学徒たちは、
自分のことを、他人とはどこか違っており、ユニークで独創的だとみなす。
自覚する「違っていること」にプライドを持つ。
しばしば疎外されている感、アウトサイダー感も伴う。
そんな、アブダクティーと同じような心理状態からオウムに惹かれていった可能性がある。 彼らは状況がちょっと違えば、立派に無害なアブダクティーとして名をはせていたのかもしれない。
ザコを殺して次のステージに進み、中ボスを殺せば新しい展開が開けて救われる、そんなゲーム系自己ヒーロー化の物語を浴びていれば、状況が逼塞したときに打開策として普通に「何かを殺せば救われる」という直感が思考を誘導してしまいうる。
苦境に陥って自己肯定感を失ったとき、ゲームやメディアで感じた「自己肯定体験/できるんだ!感」が、最も強い自己肯定感回復方法として選択され、ゲームの図式にのっとって、自分を救おうとしてしまう可能性。
追いつめられた者が自己救済をしようとするとき、そこでは善悪はどうでも良くなる(ゲーム脳うんぬん以前の問題なんだよ:ex.『「戦争」の心理学』)。かわいそうに、事件を起こした者たちは、それ以外のもっと良い自信回復方法を体験したことがなかったのだろう。
隠れた殺人トレンド1999-2005
2008/06 EurekAlert Researchers study hidden homicide trend
殺人の発生数はさほど変化はないのに、若い男性がらみの銃器殺人は急増しているぞ(アメリカ)
シンプルなボタン操作でゲームを展開させるには、ボタン一発ザコ殺しという浅はかな段取り設定が手っ取り早かった。
時代とメディア特性の因果とでもいいましょうか。
時代が変われば、自分を救う物語の選択肢も変わってしまう。

例えば「キツネやタヌキに化かされたから」というお悩み解消術は、キツネやタヌキがヒトと対等以上の神聖な力を持つ存在だとする常識があった時代に、よく人口に膾炙した。
キツネやタヌキに超自然的な力があるという想定が廃れ、ヒト以下の賤しいケダモノ呼ばわりされるようになると、「キツネやタヌキに化かされたから」というお悩み解消術は使われなくなってしまった。
同様に「宇宙人にさらわれた」想定も、世間的に「エイリアン」が神聖・高等な意味を帯びなくなれば、自己救済の選択肢としては使われなくなると考えられる。
その後の記事 追記:
2008/08 PhysOrg New study shows false memories affect behavior
新しい研究は、偽りの記憶影響行動を示す
人々は簡単に偽りの過去記憶を作成してしまう上、 その記憶に長期にわたって影響されてしまうのだ

【何のために信じるのか】
ヒトは「正しさ」ではない基準で、いろいろなものを信じて生きている。
では、変かもしれない事象を敢えて信じる場合、なぜ、敢えてそれを選んで信じるのか。 当該書の最も肝要な点はここになる。
●p.202 大意:
>アブダクションの信じ込みが生じる要因の最たるものは、人生の意味を見つけたいという欲求だ。
ビリーバーは、アブダクションを信じることによって、内面の何かが解決する。内面の解決を失いたくないからこそ、疎外された不安に戻りたくないからこそ、自分はさらわれたことがある、という感覚を大事にするし、補強しようとしてしまう。
もっとましな解決が得られていないから、自分を救うためにアブダクションにすがりつく。
「自分は選ばれたのだ」
「特別だから、こんな目にあっても仕方ない」
そして、ひどい心の傷を負いながらも、「アブダクションはすばらしい体験だった」というスピリチュアルな自己肯定感に喜びを感じている。
「宇宙人にさらわれる」ことによって、ほかでは得られない、_自己の存在を肯定する何か_を得られるからこそ。疎外感を払拭し、生きていていいよという、自分の存在意義の裏付けを得られるからこそ、自分探しの結末が得られるからこそ、ほかの何でもなく、彼らは「宇宙人にさらわれた」物語にはまりこむ。
●p.204-207 大意:
おそらく、正しいかまちがっているかはアブダクティーにとってどうでもいいことなのだ。ただそう信じていれば救われるのだ。
こういう悩みの解消点、感情の落としどころは、有史以前の大昔から、ヒトの暮らしには欠かせないものとして脈々と存在していた。
いろいろな「お悩み解決/不安困惑解消の意味ツール」が時代によって去来した。
古くは マナ(原初のパワー)。神仏のおかげ。キツネやタヌキ、呪いや悪霊、たたり。バチ。前世の因縁。お祓い。風水。
これらは思考の省力ツールであり(そうか**のせいだったのか!)、そして疎外感の解消と自己肯定感(self-esteem)アップの源になり(選ばれた、役に立った、認められた)、社交動物としてのヒトの心の健康を支えてくれる、大事な鍵概念として機能していた。

【科学のコストパフォーマンス】
でも、なんでわざわざ非科学的な概念にすがって救われようとしてしまうのか。
そこにリスクはないのか。
●p.48:大意「彼らは、科学の学徒ではない。論理や議論や徹底的な考察や証拠の適切な基準の必要性を教え込まれてはいない。
この善良な人たちは、真実の科学的立証には興味がないし、「立証責任」という言葉さえ理解していない。彼らは、客観的な証拠があるから信じるのではなく、証拠にかかわらず自分が信じるものを信じている。彼らは自分の体験に疑いを抱かない。自分の信じ込みが正しいことを仲間と確認しあっているだけなのだ。」

「この善良な人たち」を貶める事なかれ。
ヒトは、人それぞれの「信じる」レベルのまま人生を送り、それぞれに適職に就き、それぞれに世の中を成り立たせている。適材適所。人類全員が科学者である必要は、さらさらないと思うし、一部の者が夢見る「科学知識が普及した世の中」なんてのはヒトとして不自然だとも思う。
科学者は、「科学的な研究」に価値がある暮らしをしているからこそ、科学を信奉し検証にいそしんでいられる。科学することに見返りがある、科学コストパフォーマンスがいい暮らしをしているんだね。
でも、世の中には、科学的な営みを行ってもペイしない暮らしをしている人のほうが多いんだ。それが現実だ。
●p.47:大意
科学理論に構築に欠かせない『オッカムの剃刀(かみそり)』、つまり思考節約の原理は、この人たち的には知ったこっちゃない。
科学より日々の暮らしに役に立ちコストパフォーマンスが高い情報や営みは、ごちゃまんとある。科学にばかり気を取られていたら、かえって損をしかねない。日常生活的には、科学的に正しいことが、暮らしの向上QOLアップにつながるとは限らないのだ。
科学の側にしても、逐一正しい科学をすべての衆生に理解させていたら絶対ペイしないし、そもそんなことにかまけていたら「科学者」という特権的肩書きが危うくなるだろう。
科学を衆生に伝えるときには、不正確であることを覚悟の上で、なんぼか単純化して省力化に努めるわけだし。
さらに言えば、科学は衆生の自己肯定感を奪う方向に作用することが少なくない。
信仰を否定し、特別感を損ない、実生活とは無縁な科学流儀であるのに科学流儀に沿わないものを一方的に貶めにかかる(と見える言動をする学徒が鼻につく)。
旧来の場で編まれた意味物語の中に、ポッと科学の知見を放り込んでも不安が増大するだけ。もしくは異物として持て余されるだけ。
無粋で冷たく使い勝手の悪い「科学」よりは、ひごろからの思いに応えてくれる「水からの伝言」のほうが、衆生の心にはずっと心地よく響いてしまうのだ。
●p.228 解説・植木不等式
「本書に描かれているのは、私たちヒトが、特に異常な体験をした時や心がヘタった時、自分の困った状況を何とかして"合理的"に解釈しようともがく、その涙ぐましいほどの「人間らしさ」である。」

【研究者をつぶすビリーバー】
残念なことに、著者のクランシー博士は、このアブダクション研究が元でハーバード大学を辞めるハメになっている。
彼女は「なかったことが事実として記憶される現象」を研究する一つの手段として「アブダクション」をテーマに選んだ。ところが、ビリーバー(信者)さんが「アレは事実だったのに!!」と強く反発なさり、大学にいられなくなってしまった・・・
ビリーバーさん強し!!
■研究の顛末
ハーバード大学でリチャード・マクナリー門下に属していたクランシー博士は、例えば「幼少時の虐待記憶」のような、「自分の中に事実に関わらない記憶が形成される現象」についての心理学的な研究をしたいと考えた。虐待の記憶を成長してから”思い出した”人と、昔から保持している人と、そんな記憶のない人、この3タイプに協力してもらって、記憶の想起に伴う生理的指標(身体の反応)を測定してみるとかね。
でも、当時はタイミングが悪かった。前世紀末は、児童虐待対策の機運が盛り上がってきていたわけで、虐待防止の法的手続きを整備したり、甦った虐待の記憶をよりどころに人生を再構築したり、裁判を起こしたりしてホットな状況だった。その中で、虐待記憶を「妄想」だの「偽りの記憶」だの扱いにつなげるような研究を行うと、激しい社会的バッシングを招いてしまう。「どんな研究であっても、性的虐待の被害者を支援する人たちが懸命に勝ちとろうとしていた進歩をはばむものに見えたのである。」p.36 この路線で研究をしていては思いきり告訴されてしまいかねない。
そこで、クランシー博士は「偽りの記憶」研究の変化球を思いついた。
1999年「宇宙人にさらわれた人募集!」
この思いつきはヒット。「偽りの記憶」をはらみやすい人の傾向や特徴がみごとに抽出できた。
※リチャード・マクナリー Richard McNally @ハーバードの研究チームに関する過去記事。
宇宙人にさらわれたことがある人がたくさん応募して下さったそうです。
宇宙人に誘拐されたことがある人募集中 〜ハーバード大
2002/12 New York Times Harvard Advertises for People Abducted by Aliens
感情的思いこみのパワー
「宇宙人にさらわれたことがある」人、空想好きで睡眠障害気味
加えてPTSD同様の症状も 〜ハーバード大
2003/02 BBC News Alien 'abductees' show real symptoms
2003/02 Harvard Gazette Alien abduction claims examined: Signs of trauma found
宇宙人にさらわれた人のストレス PTSDなみ
2003/12 ScienCentral Alien Abductee Stress
宇宙人に誘拐されたという恐怖の体験
物語を再生し、表情筋のリアクションをチェック
人間は思いこみだけでPTSDに陥りうる
2004/06 EurekAlert Probing the world of alien abduction stories
Even the unlikeliest of memories can get a big reaction
が。
クランシー博士は、「宇宙人にさらわれた人々」の研究でさえ、すったもんだを引き起こすとは予想していなかった。
なんと、「宇宙人を妄想扱いするな、本物だ!」という宇宙人実在支持者からのツキアゲがクランシー博士を襲う。同じハーバードの心理学教授は宇宙人誘拐を支持するわ、宇宙人と児童虐待を同列に扱うなだのの横槍が来るわ、激しいバッシングにこづきまわされたあげく…
クランシー博士は、ハーバードを去った。
【教訓】 社会が受け入れない研究とは、「悪い研究」だとは限らない。良い研究であっても、社会の人々(が共有するお約束)にとって「都合が悪い研究」は、拒否&排除されるのである。

このあたりは、
植木不等式「アブダクションの心理学 - 思い出の宇宙人が引き起こした論争の行方」
が要領よくまとめて下さっている。
植木不等式氏は本書『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』の解説もお記しになっている。

で、自分が図書館に寄贈した本書は、書架に並ぶことのないまま廃棄されてしまったわけで、札幌市内の図書館には当該書は蔵書されておりません。ええい、新品同様の状態で寄贈したのに、くやしいぞ。
みなさんの最寄りの図書館には、この良書は収蔵されていますでしょうか。
●p.216
かつてカール・セーガンは、科学を正しく理解していない人ほど、疑似科学を受け入れやすいと言った。わたしは彼の意見に賛成して、この研究プロジェクトをはじめた −− だがいまは、失礼ながら同意できない。アブダクティーはわたしに、人間はいろいろな信念体系を試しながら生きているということを教えてくれた。これらの信念体系のいくつかは、科学とはほとんど関係ないような強烈な感情の欲求 −− 社会の中で孤立したくない欲求や、特別な権力や能力を持ちたいという願望や、宇宙に自分より大きな存在がいて自分を見守っていてほしいという望みなど −− に訴えかける。アブダクションの信じ込みは、ただの悪しき科学/バッド・サイエンス/ではない。不幸を説明したり、個人的な問題の責任を回避したりするためだけのものでもない。アブダクションを信じることによって、多くの人が精神的な渇望を満たしているのだ。宇宙のなかに自分の居場所があることや、自分は大切な存在であることを教え、安らぎをあたえてくれるものなのである。
精神的な渇望を満たす、宇宙人。そんな図の中で生まれた「アブダクション」という物語。
残念ながらクランシー博士はこの佳品の末尾を、キリスト教圏のビジョンで締めていた。「エイリアンは、科学と宗教との矛盾に折り合いをつける神のような存在(p.222)」 このアブダクション研究から見えてくる人心の機序は、もう少し文化的に広い射程から見て結論付けるべきではないかと思う。
そして、なにより、なんらかの存在や想定が、心的問題の解消になってしまうという事実、その機序、心理的機構、脳のしくみを見てみるべきなのだろう。
ヒトの中に生じる自己肯定感。解決した感。 「アハ!」どころではない、「自分はこれでいいと思う」その「腑に落ち」感覚がなぜ、何によって、どのように、自己を支配するのか。
自己肯定欲という煩悩を、ヒトが止揚できる日は来るだろうか。

2008/08/15 その後の追記:
図書館に寄贈した本、登録されました。札幌市内の図書館に収蔵されました。図書館の人、サンクス! 札幌の人、図書館から借りることができるよー。(^_^)/
へぇボタン:へぇ〜
と押してみるもよし


『ほめる、叱る、言葉をかける 自己肯定感の育て方』 今井 和子 (著), ほんの木 (編さん) ほんの木 (2007/08)
『競争社会に向き合う自己肯定感 もっとゆっくり/信じて待つ』 高垣 忠一郎 (著) 新日本出版社 (2008/06)
The Lure of the Edge: Scientific Passions, Religious Beliefs, and the Pursuit of UFOs Brenda Denzler (著) (2001/11)
UFOとアブダクションのカルチュラルスタディーズ
きわどさの誘惑 科学的情熱、宗教的信念、そして空飛ぶ円盤の探求
当該エントリは、
を元に、加筆更改したものです。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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