こんなオバカねたを書いてしまうほどだ。

『ホッテントリメーカー』っていうサイトがあるんだ。
このサイトは、ご親切にも無料で「はてブ」がいっぱい寄ってたかってきそうなオイシイ「タイトル」を自動生成してくれるんだ。
ちょっとやってみたよ。
お題は「尊厳死」。
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どれもはっちゃき楽しい尊厳死だね。

ここはそのホッテン取りとは関係なく、サブタイをつけてみるけれど。
【だだをこねる死者と尊厳死】
今年の始めに出た『現代思想』の巻には、「尊厳死」について出色に面白い対談が載っていた。


青土社 月刊『現代思想 2008年2月号』 特集「医療崩壊 生命をめぐるエコノミー」
→ 執筆者一覧と収録内容の目次
【討議】小松美彦+荒川迪生「尊厳死をめぐる闘争 医療危機の時代に」
この対談(討議?)が、もうあられもないくらいに、ぐだぐだでかわいかったんだ。
そうかそうか、理屈って意味ないよねぇ、みたいな。
日本尊厳死協会の
それに対して、
荒川氏の理屈がヘナヘナなぶん、刺される釘など気にせず進む彼の歩みに、よけいにリアルに「ああ、死の想定者はもう実際には理屈はどうでもいいんだ」という、いやおうもなくぬる神に湿気た実感とじわじわぬかるみに足がまみれる泥沼が味わい深い。
... 以下つづき...

翌月に出た3月号だ。
青土社 月刊『現代思想 2008年3月号』 「特集:患者学 生存の技法」
→ 執筆者一覧と収録内容の目次
杉田俊介『ALS・自然死・家族介護 いちヘルパーの小規模な日常から』
>たとえば、日本尊厳死協会の人々は、彼らなりの尊厳死の基準を述べる。しかしその多くの死なせるための理由は、論理的に切り崩されうる。(これに関しては小松+荒川 200802 の、小松美彦の論理的かつ容赦ない論駁を参照)。今は細かい話は飛ばす。外皮を取り除いていくと、どうやら、最後には「自然死したい」という欲望が残るらしい。 [〜中略〜] そこにはおそらく自分の身体と生の自然さを破壊されることへの怖れがある。
●自然死?
さらに『現代思想』を遡れば、一昨年末の「自立」特集号が浮かび上がる。
この自立フィルタを通して見れば、杉田氏の言う【「自然死したい」という欲望】は、自然死ではなく「自立というポーズへの欲望」として見えてくる。ほかにはもうたいしたものは残っていない、残りのなけなしのプライドに、最後のプライドに賭けるゲーム。
「自立」したままで生きていたいという欲望が、「自然死」というあやふやな想定へのだだこねとして現れる。
青土社 月刊『現代思想 2006年12月号』
「特集:自立を強いられる社会」
→ 執筆者一覧と収録内容の目次
堀田義太郎
『決定不可能なものへの倫理 「死の自己決定」をめぐって」』
>安楽死をめぐる考察は何よりもまず、人に自ら死を選択・決定させている状況および条件を解消する、という課題に向けられるべきである
●周囲のせいで死を選ぶ?
世間のせいで死を欲するのだ、という視点は生者的な落としどころだ。
元来、死には良くも悪くも固定された価値はないのだが、生者が語ると「本来生きているべき者が死を求めるのは異常だ」という話に矮小化されていってしまう。
この世でしゃべる権利があるのは生者達ばかりだ。
数としては圧倒的多数である死者は、いっさいミームを発信できない状態に置かれている。
死はこんなに正常に万人に訪れるものであり、こんなに大事なライフイベントなのに、なんでこんなにないがしろにされているのか。
マジョリティである生者(生礼賛信者)の中で、マイノリティである死者(に属しようとしている者)がおのれのありようを正当化する物語を編むのは、なかなか至難のわざだ。
その中、ひとつの救済の方舟として、尊厳死という看板があるわけなのであって。
価値観と欲望は別のルートからわき上がってくる。
おのれの価値観は、周囲に影響されて形成される。
プライド欲や保身欲は、身の内から、脳領野から、理屈を無視してわいてくる。
欲望のあとに、理屈がこじつけられる。
欲望を正当化するための理屈は、周囲の顔色を見ながらその場その場で最適そうなものがみつくろわれる。欲のために、理屈がカスタマイズされる。
●自然死というアイコンに求めるものは実際は何
でさ。
自然死でなくてもいいんだよ、尊厳死希求者的には。
それこそ自然死や「理想の死」が何を指すかなんて、状況や文脈でころころ変わるんだ。死にゆく者は、要するに「かっこよくきれいに」ネガティブではないプロットの中で、死にたい(完結したい)とだだこねているだけなんだよ。
他者が編む物語の中で、敗者に割り振られたくないと主張しているんだよ。
自分が編む自己正当化の物語の、尊厳を求めているんだよ。
尊厳死は一枚岩ではない。
いろいろな欲望を、尊厳死という看板の下に偽装しているだけだ。
それぞれに、自分好みにカスタマイズした尊厳死を、一連の尊厳死の流れに沿うものだと偽装して、大きな物語の中に紛れ込ませていく、ザコであれ、登場人物の一員となる。周囲の条件(セッティング)を利用するし、周囲の条件に合わせて自分のだだこね(キャラ立ち)もうまいこと捏ね変えていく。
法や規制で姿を定めようとしても、定められたナニカに姿を合わせきれない者は、自分なりのだだこねでシェルターを作って立ち現れる。シェルター、もしくは防護服、戦闘服。その「ナニカに合わせきれない」防衛・攻撃形式の一つが尊厳死なのであり、手を変え品を変え、規格に合わない者は自分なりの自律欲に突き動かされて、おのれを守るというスタンスの元に、カウンター的なありようをつぎつぎ捏ねあげていく。
次々現れる期待の新星や新型機を弄び消費していく姿に似て、尊厳死も論理は二の次に、自己保身欲をバネにして、せいいっぱいのだだこねとして声をあげている。
ヒトは、おのれの有り様はどうであれ、自分のありようをほめることができるポジションを求めて、理屈や居場所を求めて、あくせくしている。たまたま声高な位置を占めることができたサル山の大将たちは、おのれ側のありようを正当化する自己ホメ理論を世間に投げまくる。下位の存在なくしては機能しない進化的経緯があるというのに、プライド中毒とマスメディアは、下位を貶める上位者用の自己正当化理論ばかりにたかりがちになってしまう。階層の上下と幸福度は全然直結してはいない。だのに、実際の幸福度には関係なく幸福度の虚栄をまとった上位者用の自己正当化の理屈が世に流通してしまう。そんなおかげで、なかなか正当な幸福感は世に満ちていかない。
●生者的には許せない価値の置き方かい?
価値観は、何かを上にし、何かを下に設定する。
一つきりの価値観(たとえばモノカルチャー)で強行すると、誰かが下に置かれたまま救われないことになる。特定の立場用に定められた上下は、正当か不当かにかかわらず一方的に誰かの「欲機能」をフラストレーションにおとしいれ虐げる。
この世に最も多いマジョリティは、生者だ。生者はおのれの「生きている」ありようを正当化するためにあらゆる手練手管を用いて死を貶める。正当か不当かにかかわらず一方的におとしいれ虐げる。
これまですべてのご先祖さまがたは何億回も何兆回も死んできなさっているのに、いまどきのひとばらは、培われた死の作法・死の価値観をドブに捨てさってはばからない。こんな低レベルな尊厳死の理屈しか残っていない今の有り様は、なんと一面的に浅薄でみすぼらしい世界であることか。
ヒトは複数の価値観に生きる場合、救われる度合いが高くなる。
マイノリティに生き、カルチャーショックを経た複数の文化規範の間を生きる者は、支配層のマジョリティより視野が広く思考が柔軟であるという。
(先月あたり、この点にからむレポートが流れていたのだけれど、マシンのクラッシュで紛失してしまった)
死を前にした者は、生者用の規範から切り離され、死者用のプライドを会得して最後のライフイベントに臨んでいなさった。
●死者用に価値観をカスタマイズ
死の作法。
それは生者が生者基準でこしらえるものである必要はない。
死にゆくものとしての価値規範をこしらえること。
これは「生に価値」を置いている限り、生者側のプライドに媚びている限り、死側のプライド欲に響くおとしどころは望むべくもない。
生者から見てソイレント・グリーン的な戯画になろうが何としようが、法がどうであろうが、責任も縁もゆかりもクソも、死者的にはそんなの関係ない。
自分の居場所の確保に、死者として、理屈以前にだだをこねる。
自己正当化欲の発露。
この期に及んで。
欲は、快感希求機能として身体の中に備わっている。
欲を満たすすべを、周囲にある理屈の中から選り抜いてこじつけているだけである。
問題は、生者側が、生者用にこねた屁理屈の中を生きているという現実を冷めた目で自覚できるかどうかだ。
マイノリティである死者は、生者のマイノリティたちと同じように、マジョリティをアテにせずに他人の語りに対抗しうる自分のポーズを自律・自立させたいという欲望を満たすべく、この世で屁理屈を追求する。
ああ、疲れているからかな、ちょっと脱線がひどいな。この主題はアナフィラキシーや痙攣を起こす人がいるので、わざとややこしく書いてみているけどね。
要するに、死を正当化する理屈(価値規範)は、生を正当化する理屈(価値規範)とどっこいなんですよということだ。
この世は理屈で進化してきたわけではなく、進化結果に生者用の屁理屈がこじつけられているだけにすぎない。

『現代思想』2月号と3月号は、尊厳死ネタ以外にも、深みにはまれるおいしいテーマが目白押しです。
『現代思想2月号』 特集「医療崩壊 生命をめぐるエコノミー」 → 収録内容の目次
『現代思想3月号』 特集「患者学 生存の技法」 → 収録内容の目次
『現代思想』2月号と3月号 :川口有美子の書評ブログ
「患者の体験から学べ」
2月号、3月号と続けて誌上で貴重なインタビューをさせていただいた。前号は紹介したとおり、難病治療を現代思想の切り口から中島孝医師に語っていただいたが、今回は難病対策の歴史を遡り、その創始期に活躍された川村佐和子氏のインタビュー。ふたつ合わせて読むと過去から現代至る日本の医療思想の傍流を感じられる企画になっている。 [〜中略〜] この二つはセットで読んでいただきたい。哲学や生命倫理学を志す人にとっては、難病医療は必修科目である。
難病医療は、ファビュレーションSFや実験小説ネタの宝庫でありながら、当事者に遠慮してあまり掘り下げてこられなかったきらいがある。
シミュレーションが不十分なまま、現実は、山海氏と松原氏が嬉々としてワイアドとしての患者の未来の姿を語り合うような状況に至っている。
【討議】「サイボーグ患者宣言」 山海嘉之+松原洋子 (所収:月刊『現代思想3月号』患者学 生存の技法)
Web2.0ならぬ「人体2.0」の
健常者は、難病患者に遅れをとるのかもしれない。

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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