
『老いの人類学』
青柳まちこ編
世界思想社 2004
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序章 老いの人類学(青柳まちこ)
1 長寿のシマ沖縄の高齢者たち 片多順
2 敬われる老人たちの姿 −− ベトナムの国家,村落,家族による処遇 比留間洋一
3 アラブ・イスラーム社会における「老い」 −− 若齢社会チュニジァの老人たちの肖像 鷹木恵子
4 歴史の狭間を生きたアボリジニの老人たち −− アボリジニ政策に翻弄された「長老」たち 上橋菜穂子
5 今を生きるイヌイトの老人 −− 知識と技術の宝庫 スチュアート・ヘンリ
6 楢山節の比較文化考 −− 昔の老人と今の老人はどちらが幸せか 青柳まちこ
7 老後をどう生きぬくか −− ロシア極東の高齢者 百瀬響
8 アメリカ中西部ホームタウンの「独身」高齢男性 −− ケアリング精神の実践者たち 佐野敏行
9 「ヘルピング」と「世話をする」 −− アメリカ人の自立と介護 藤田真理子
「老いの人類学」研究史(片多順)
青柳氏による序章が圧巻。
何がどうすごいのかは、ウェブ上に誰かさんによって要点がまとめられたレジュメがあるので、自分がぬらぬら書き出すより、そちらをご覧になっていただくほうが手っ取り早い。
... 以下つづき...

>2006年 5月10日 基礎人間科学演習? 人類学研究室 M1 藤井真一
>老いの人類学 青柳まちこ編 世界思想社
【PDF】バージョン データ管理者は Abyss
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老人に対する態度と生態学的要因・社会的要因との相関関係を求める。
多くの社会では、男女の区別なく老人はかなり充分な食物の配分を受けている。
特に気候の厳しい劣悪な環境では、地域社会からの食物配分を受けなければ生存が困難・不可能であるために、その傾向が顕著である。
(この傾向は狩猟民・遊牧民ではやや少なくなり、農耕民では最も少ない)
ex. エスキモー社会やオマハ社会における摂食者制限(老人以外は摂食禁止の食物)。
・老人の威信 = 年を取りすぎて無力にならない限り、何らかの尊敬を受けている。
← 広範な知識、熟練した技能、呪術的能力、宗教的権威などに拠る。
・遺棄と殺人 = 定住していない採集民や狩猟民、また遊牧民に多くみられる。
(定住漁労民や農耕民にはあまりみられない)
頻度 女性 ≫ 男性
・気候条件(生態学的要因)が厳しいほど、老人に対する厚遇・冷遇(態度)の度合い(絶対値)は極端になる。
・・・わかりづらいか。
当該書を読んだほうが早いかな。「老い」に分類される個人。
「老齢」という特定の要素に合致する個人を、どう遇するかの規範が、社会的要因や環境的要因によって、なんぼか類型的なパターンが見えてきてしまうわけで。
伝統がどうあれ、かような条件下におかれれば、いきおいこのような文化になってしまうのだ。そんな。
(特定の要素に合致する個人:
文化によって、社会によって、どんな特徴をもってして「老いた人間」だとみなすのか、もしくは「老い」の概念がどう異なりうるのか、そこもツボなのだ。「ところ変われば老いも違う」部分もあれば「やはりたいがいの文化ではこうなったものが老人」というパターンも立ち現れる。)


●老いを厚遇する文化規範
サバイバルしにくい環境に置かれた場合、時代を超えて伝える知識が共同体の生存率を直接左右しうるときには、老人は厚遇されるのではないか。数十年ぶりに起きるこの現象の時には、食糧はあそこにしかなく、それを知らない集団は死に絶えるのだ。みたいな。
サバイバルしにくい環境に置かれた場合、個人の運動能力だけが物言うような世界では、老人は捨てられやすい可能性が見える。知識がどうあろうと、わずかな獲物に追いつけなければ、はいそれまでよ。
社会変化が少なく、知識・経験・技量の蓄積や、財産の蓄積がステータスを大きく左右する世界の場合、老人の威信はでかくなる。
社会変化が大きく、刷新を是とし世界を塗り替えてナンボ、の世界では、積み重ねた経験が使い物にならない。財産持ち以外の老人の価値は地に墜ち、弱者に零落して捨て置かれる。我々の社会は、今コレだね。
漢字Talkで培った知識経験も、OSX時代にはさっぱり使い道がない。(Windowsで言えば、MS/DOSとWindows Vista? ポケベルのハウツー知識は、ケータイ時代にはもう無意味。 ネットで言えば、ニフティサーブの経験はセカンドライフ時代には無用の長物、とかさ。) せっせと集めたプラグインやデータも、バージョンが新しくなったら全然読めやしない。けっこう腹立つ。

いや、閑話休題。
老人の地位低下には、単純に社会変化奨励が原因だとも言いきれない、アジア諸国の台頭(単純労働でも技術職でもお安く承ります)も大きく関わっているだろうし、「変化しないと生き残れない」という赤の女王的強迫観念も燃えている、そして何より「老人が供給過多」
というのもあるのだろうけど。先人の知恵を、あっさり活用できないシロモノにしてしまう社会。(昔は、そうではなかった社会があった)
イソップ童話のアリとキリギリスになぞらえて言えば、人生の夏にあくせく働きどおしたアリも、積み重ねた経験は役に立たず、キリギリスといっしょに冬の老年期に凍え死ぬ、みたいな。
厚遇であれ、冷遇であれ、それぞれに尊厳を保つ規範が伴っていればいいのだけれど、「変化奨励」の現代ではそういう規範の合意も難しく。

●片多順「長寿のシマ沖縄の高齢者たち」
長寿の儀礼(長寿のお祝い)が紹介される。p38
親戚・縁者が、一人の高齢者のために寄り集まり、「模擬葬儀」的な色合いを帯びたものとして執り行われる。
それは「葬儀の同意」であり、この先に確実に訪れる、みまかった(亡くなった)ときのみなのありようを予言する儀礼となっている。
> 共同体の中で、お互いの中で、何かあったときには「我々は」こうするのだ、という了解が常から確立している。
> それがあるからこそ、「浦仕舞」は成立する。
いまどきは、老人も若人も儀式からは縁遠めなのかな、共同体における「何かあったときには「我々は」こうするのだ」同意ができている率は少ないと思われる。
同意なしで、覚悟して死ねるか?
同意なしで、近親者の死に対処できるか?
同意は、できているか?
強さを持たない者は、心の安寧を確保するために、周囲を巻き込む儀式にすがるのがいいのかもしれない。
(でも、その結果「自分はまともに葬儀してもらえない!」という事実があらわになることもありえるので、そのへんは、自分なりの未来に向かってよろしゅうご対処を)
追記:
ねえ。
自分が老いたとき、尊敬され、尊重されていると思いますか?
それはなぜですか?
それは良いことだと思いますか?

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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