
『遺伝診療をとりまく社会 その科学的倫理的アプローチ』
ブレーン出版 (2007/3/22)
水谷 修紀監修
吉田 雅幸監修
吉田 雅幸編集
小笹 由香編集
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先のエントリで、ひととおりこの書籍は紹介した。
ここは都合により、この本の第一部収録「難聴と遺伝」(喜多村健)に挙がっている「聴覚障害」のデータを枕に置いてから、「ろう文化」の話をまた蒸し返す。

■「難聴と遺伝」 東京医科歯科大学耳鼻咽喉科学 喜多村健
この章から情報を抽出すると、
・1000人に一人は、赤ちゃんの時から耳が聞こえない
(雨崎が通っていた小学校は、全児童数が3000人というトンデモマンモス学校だった。雨崎的には、これは「1小学校に3人」という計算になる)
そもそも、耳が聞こえなくなる原因にはたいへんいろいろな種類がある。
・遺伝的に(体質的に)聞こえなくなる場合もある
・遺伝に関係ない病気や怪我で聞こえなくなることもある
・遺伝がらみの難聴の中にも、さらにめちゃめちゃいろんな種類がある
生まれながらに聞こえないケースだけでなく、成長してからしだいに耳が聞こえなくなる仕様の遺伝病もある。
・10代で発症して、その後10年以内に耳が聞こえなくなるタイプの遺伝病
・20歳くらいまでは難聴で、その後完全に聞こえなくなるタイプの遺伝病
これらは、遺伝子でその耳の運命が決まっているわけだ。
■大人になってから、聴覚を失う
意外に多いのが、成長してから耳が聞こえなくなる事例。
雨崎の知人も一人、30代のバリバリサラリーマンのときに突然原因不明で両耳が聞こえなくなる運命に見舞われた。彼は幸いにもハイテク系エンジニア職で、解雇されることなく勤務は続けることができたが、在地が旧弊な田舎でもあり、苦労は多大だったようだ。
... 以下つづき...

自然言語としての手話習得には、臨界期があることが確認されている。
ヒトには「言語習得に適した時期」がある:手話含む
2002/01 EurekAlert! Study finds there's a critical time for learning all languages, including sign language
ふつうに第二言語の学習と同じく、手話学習も「大人より子どものほうが有利」。
言語習得の臨界期:新たな言語を学ぼうとする学習者の年齢が中学生くらいを過ぎていると、習得の困難度が格段にアップしてしまう。脳の中の言語を吸い取るスポンジが、思春期を境に固く融通が効かないものになってしまうゆえ。
音を聞いて育ち、日本語を使っていた人が、大人になってからネイティブの手話を習得するには、かなりの努力と根性が必要となる。
成人してから聞こえなくなるのだとあらかじめ運命が定められている遺伝病であれ、事故で聴覚を失ったものであれ、学校で日本語しか教えてもらえなかった「ろう者」であれ、頭が日本語脳に固まってしまった者は、手話育ちのネイティブたちのような流暢な日本手話はなかなか習得できない。
【ろう文化は門戸が狭い?】
■中途失聴者の視点がずっと出てこなかった本

で。
先週の記事に戻るけれど、
で紹介した書籍、
著者は赤ちゃんの頃から耳が聞こえない、「音を使わない文化」ネイティブの人だ。「音を使わない文化」は「耳が聞こえる文化」とどう違うのか、そのズレを卓越した視点でパシパシ切り取って見せてくれた。
そのすばらしい著述の中、読んでいてたいへん気になったのが、「成長してから耳が聞こえなくなった人の立場」がほとんど記述されていないこと。登場しない。
この本の中に登場する「中途失聴者」の話は、唯一「フリクショナル・ムービー(特定の立場の人がヘンな描かれ方をしていてキモイよ映画)」の文脈でだけなのだ。それも、「中途失聴者の主人公が流暢(りゅうちょう)に手話を駆使するのはおかしい」そんな沙汰され方どまりなんだ。

ろう文化の視野には、中途失聴者は入らないんだろうか。
中途失聴者は文化バリアのあっち側の存在でしかなく、もしかして耳文化からも、音を使わない「ろう文化」からも一人前扱いされないまま、どっちつかずの悲しいコウモリさんにされていたりするんだろうか。
流暢な手話は望めず、「ろう文化」の成員にもなれないまま、「音のない世界」で「耳の聞こえる日本語文化」のままの慣習で生きて行くしかないんだろうか。
この世に「中途失聴者文化」は、ありますか?

【「ある」確率の話】
■日本では聴覚障害は遺伝しないのか
また、遺伝疾患専門家の怒鳴り込み ★ の話に戻してしまうけれど。
私は欧米の「ろう文化」の文脈で「聴覚障害者どうしが子どもを作ると聴覚障害の子が生まれる確率が高めになる」と書いた。その記述に対し、遺伝疾患専門家氏が「おまえの記述のせいで子作りをあきらめて泣いて暮らした夫婦がいる!」と怒鳴り込んできなさった。
確率は難しい。数値はどうあれ、印象がめちゃめちゃになって判断が狂わされる魔物が棲んでいる。
自分はそんなひどい誤解を招くような表現をした覚えはないし、実際どんな確率であれ、診断しないと我が子が障害者であるかどうかはわからないはず、そして聴覚障害に限らず、誰しも遺伝要因無関係に障害者の子を持つ可能性は持っている。でも専門家氏は「欧米より日本のほうが率は少ないのだ、こんな情報を書くな」。いや、少なくても「ある」でしょう。あるかないかを判断する肝心の遺伝子診断をする立場の人が、ここまで「ない」方向に偏向させてどうするのか。
患者夫婦の「怯え」に自分の価値観を投影させすぎなのか、「聴覚障害者が生まれることに怯えて子作りを断念した聴覚障害者の夫婦」という図の陰影に含まれているであろう「聴覚障害者が健常児を生んで我が子に苦労させるという図に対する恐怖」には思い至っているのかどうか、確認するスキもなく。
で、確認もできないままこじれて出口のなさそうな障害云々の話から、一気にひとまわり大きなくくりの枠に話をシフトさせるのだけれど、

【死の効用】
障害にしても、差別にしても、価値観しだいだ。
●ヒトは、成長過程で価値観を刷り込まれる。
その価値観は、生涯通じて思考を支配することがある。特に男性で顕著。
死ななきゃ治らない場合、実際死んでくれるほうがいい。
なぜ、人間は死ぬのか。
死んだほうが、適応的なんだ。
死にたくないという偏向した固定観念は、死ぬ確率がやたら高い世界に住んでいた頃のなごりと欲礼賛の現代価値観が見せる知恵熱に過ぎない。
死んだほうが、適応的だから、今まで人間は死んで世代交代をしてきたのだ。だってほら、
だ れ も 生き残ってない。
み ん な 死んだ。 死んできた。 みんな死んだんだ。
と、いきなり飛躍しておいて、まあ、死の是非はともかく、要するに「価値観が世代交代してくれるとラクな場合があるよな」と。
例えば、福島の事例。
どこかの時点で価値観の再生産が、伝承が断たれてしまい、積年の怨念が雲散霧消してしまう。
戦争を知らない日本の世代、過去のいきさつを知らない次の世代・・・
世代交代があると、価値観の死に絶えがあると、便利な場合がある(便利じゃない場合ももちろんある)。一概に良し悪しがどうのではなく、変化による効果が「ある」。
価値規範の入れ替え。
●そして、ろう文化周辺の価値規範の入れ替えはどうだろうか。

聴覚障害を世界の終わりのようにみなす人。
ろうであることで傷つき続ける人。
聴覚障害は不幸をもたらすと信じている人。
ろうを産んだ家族と縁を切る人。
そのような価値観世界で育った彼らは、人生の途中で転向できるだろうか? 説得をするよりは、いっそ世代交代をなさってくれる方が手っ取り早いほど、転向しづらいものだろうか?
自分たちのありようやルーツを誇る、マイノリティの尊厳確立運動は、まだまだ歴史が浅い。価値観の入れ替えについていけない周辺関係者は多いだろうし、まして数年の教育機会の差だけですでに世代間に壁が大きく立ちはだかるようなややこしい状態に置かれている「ろう者」の世界だ。
先週土曜のETV特集「僕たちのアイヌ宣言」はめっさかっこよかった。旧世代との断絶は大きいなりに、海外の尊厳回復運動の先達から力を授かって、新しい革袋にアイヌが入った。マイノリティが、自分たちの文化を誇る運動。
日本のろう者も、欧米から力を授かって、この時代に尊厳を回復し、新しい世界と新しい関係を構築しようとしている。
・・・では、その流れの中、中途失聴者はどこにいるのだろう。
なんかこう、
>価値規範の断絶<>ろう文化<>中途失聴者<
自分の中でうまく落としどころが見えてこない。

■仲間を見分けるための言語
日本に長く住む異国人が使う日本語には、どこかネイティブではない違和感が残りがち。
見知らぬ人と会話していて、懐かしいお国言葉と出会うと、旧に親近感を強めることがあったり。
同世代だけで通じる仲間言葉や新語を駆使して、「ぼくらは内輪で最先端」感を楽しんだり。
同じ言語を共有しているか、同じ世界観を共有しているか。そのあたり、相手が用いる言語や言い回しから”仲間度”敏感に検出しながらヒトは日々暮らしている。
成長してから聴覚を失う「中途失聴者」たちは、大人になってから手話を使わざるをえないような状況に置かれ、聴者からも、ろう者からも、”仲間度”が低い状態に置かれてしまう。
ある意味「境界例」だなぁと思いつつ、ではその境界に足を踏み入れるに際して、現代日本ではその大きなライフイベントに適した「通過儀礼」は用意できているだろうか、個々人の試行錯誤にまかされるままに放置されているのだろうか、などと思いめぐらしてみたり。
いや、閑話休題。
【文化とは、言語のことなのか】
聴覚障害の「ろう」と対比しやすい位置にいる者として、視覚障害者の「盲者」が考えられる。
が、「盲文化」はあるだろうか? あるとしても「ろう文化」ほどの先鋭的な立ち上がりはしていないのではないか。
一つ考えられるのは、「盲者」は日本語世界で暮らしていること。日本語文化圏の価値規範(健常者用の自己正当化こじつけ価値観)の影響を受けやすい状態にある。そのぶん、「日本手話」という異言語に暮らす「ろう者」ほどの異化は、かなわないのではないか。
中途失聴者にしても、慣れ親しんだ日本語と日本語文化の強い影響下にあるために、日本語文化とは違う「異文化」としては立ち上がりえないのかもしれない。
2008/03 追記:

『ろう文化の歴史と展望 ろうコミュニティの脱植民地化』
パティ・ラッド
明石書店 (2007/08) .
2008/02 【日本語ブログ】: 伊藤智樹の書評ブログ
この書評を読む限りでは、「言語環境が異なることによって生み出される、その環境にある者の自己正当化理論と密接に生み出される言語体系」という視点が欠けているように思われる。
「健常者を最も持ち上げがちな日本語(健常者用言語)」の中で敢えて別の自己正当化を対抗馬として構築しようとするいまどきの「病語り」と、「健常者とは異なる自己正当化がデフォルトで発生する異言語」が主役となるろう文化とでは、なんぼか様相が異なっていることに気がつけるか否か。ここに気がつかない場合、「時流が変われば、ろう文化のアイデンティティ確立指向もうやむやに」と見えるだろうし、その方向に実際流されてしまいかねない。

■そしてこれは、サピア=ウォーフ仮説に則るわけではない。
で紹介した書籍では、ろう者の文化は日本語話者の文化とはかなり違うから異文化摩擦がけっこうたいへんなんだよ、という話がたくさん披露されていた。
これは、サピア=ウォーフ仮説を聞きかじった人にしてみれば、日本手話という特殊な言語があるから、ろう者は日本語話者とは違う思考をし、異なる文化を形成するのだ、そう考えたくなりそうな話ではある。
「言語が違えば思考が違う」その可能性を示唆するサピア=ウォーフ仮説。
いやいや。
その方向に水を向けておきながら、自分としては「ろう文化」の独特さは、「視覚依存」という機能的な制限やサピア=ウォーフ仮説以前に、たぶんにこれは「脳の感情機能が音に左右されない状態」で育った場合に自然に形成される文化規範ではないだろうかと、思えるのだが。
「脳の感情機能が音に左右されない状態で形成される文化」とはどのようなものなのか。
この話は、またひとしきり長くなるので別のページに置きました。
↓

![[ EP: 科学に佇む心と身体 ]](http://homepage1.nifty.com/NewSphere/transparent.gif)







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